配慮技法のための整理

▼誰かの心に配慮するための技法とかってアリなのかなー、とは考える。のために形態を整理してみようかな、とも思う。第一に、認知科学あたりを始めとする実験的かつ統計的な「人類の特徴」を踏まえて相手の心理を想像する技があるかな、って思う。第二に、いわゆる内観などを利用しての「自分の心理」を原型あるいは類型にして相手の気持ちを想像する技もあるんじゃないかなー、と考えてみる。第三に、観測した「相手の判断や行動や言動」を基準にして相手の心理を想像する技っていうのがあるよな、とも思う。ま、実際は組み合わせだろう。状況や状態に合わせて最適な配分を考え、調合する。わからなくても調合だけはしてみて駄目なら駄目で経験としておく、っていうくらいが現実的結果としては妥当かもだな。あと、相手の心理を想定してみる、という行為を目的にしてみるにあたって、配分を臨機応変に動かしながら試行錯誤できるか、っていう差が、社会や倫理や哲学あたりに対する認識をだいぶ違うものにしたりもするんじゃないかなー、なんていうことも同時に考えてみた。換言するなら「いかにわかりあうことができるのか」という問いにできたりするだろう。わかりあうって結局何なんだろう――理解が何処らへんまで達すれば「わかりあえた」ことになるのか、なんていう問いになってもゆくと思う。完璧わかりあえるぜ、とは微塵も思ってないのだけど、だからって、まるで理解できないってわけでもなくて、何かはできるだろ、と経験的に判断しているから、やれるだけのことはやりたいね、って思う。というようなことが、実際は何処までありえるのか、改めて整理しておきたいのだった。整理から始めたい、ってわけじゃなくて、整理しながらで。