理想の取扱いを知った時点で堕し始めていたのかなとか

▼笑顔の向こうで誰かが泣いて苦しんでいるかもしれない。怖いことだよな、ってずっと思っている。以前から怖いままだ。確かに、完璧に判別する術などはない。つまり、見透かすことなんてできない。できる、なんて強気に思ってしまうと、また別の問題が起きてしまったりもするだろう。傲慢や過信の匂いが濃くなってしまう、とか。だから、脆く危険な橋だ、って思っているし、同時に、結局は何処にも繋がっていない橋なんだよな、とも思っている。繋がらない。続かない。間違う日は遠くなく待っているからだ。おかげで諦念や達観が必要とされたりもする。経験則が連れてきてしまう。諦めてしまえ――無理しないでいい――頑張るべきことはほかにあるから――可能な範囲で誰かを慈しめば問題ないから――忘れてよいよ、なんて、穏やかに優しく無様に諭される。あるいは、漸近に繋がって素敵だ、なんて、褒められてしまって、納得してしまう。というかまあ納得してしまっていたんだと思う。理想を掲げて現実を高めていくことが、よい、のだ、とかいう理念が、最近はむしろ逃げ道になっていたんじゃないかなー、って思った。現実に巧いこと適合する「理想の取扱い術」を知って、微妙にだけど歪んでいたんじゃないかな、って思った。舐めんな、って喧嘩売るくらいが素敵だったのに、理解しちゃっていた。理解して諦めていたわけでも、理解して手を抜いていたわけでも、ないはずだけど、でも、経験則的に「理解」しちゃって、微妙に駄目駄目になっていたところは、間違いなくある。あるんだと思った。まあ、叫んで喚いて対抗してりゃあいいんだ、とかいう雑なワガママ反骨と紙一重な印象もアリアリだから、極端な慎重を保持しておこうとは無論思ってるのだけど、いずれにせよ、改革は目指そうと思う。楽しみをちゃんと指向しようと思った。