明日もまた生きるためのビジネス以外のビジネス

▼洗濯行為に対して「明日も生きる」を指向した行為だと解釈することは可能だろう。もし数分後に死ぬなら洗濯することを選ぶ理由はあるまいと思うからだ。同様に、ビジネスもまた「明日も生きる」ことを自然と指向してしまう。んじゃないかとは感じる。明日もまた生きようと思うから、という理由以外で、ビジネスを駆動させるものは、果たしてありうるんだろうか。ありうるのなら欲しいものだ、とか思っているようだ。
▼楽しいから? 楽しいから、かあ。まあ完全に的外れということもないんだろう。死ぬとか関係なく、ビジネスという行為が楽しいから――歓喜をくれるから、選ぶのだ、という理路である。ま、納得不良な理由というわけではない。正鵠を射ているところもあるに違いない。のだけど、楽しみを追求する、というコンセプトの元で、定義的にビジネスと言えるようなものを――ビジネスと定義可能なものだけを、あえて、わざわざ、選択する理由が、ビジネスと呼びうる行為の中に、あるんだろうか。換言するとこうも言える。ことさら追求してみせるほど、ビジネスが見せる楽しみは特殊だろうか。
▼齟齬を解決するための思考なのはわかる。言ってしまうなら、悪質な性癖を誤魔化し捏造するための創作だ。ビジネスを楽しんでいる、という現実がまず実際にあって、利益を追求しないと駄目だ、というビジネスの定義にも、同意しかけている。けれど、利益というのは「明日も継続して生きる」ことを前提にしないと価値を持ち得ないだろうと感じていたりもするのだ。んで、明日も継続して生きる、という思想を、称揚したいとは微塵も思っていないのだ。誰もが生きて当然、とかは可能な限り思いたくない、というかな。
▼利益を「誰もが明日も生きて当然」という思想以外でも価値を持つもの、と見なすことが可能なら、問題は解決するだろう。また、利益以外にもビジネスがもたらすものがあるなら、別の領域で問題は解決しうる。ビジネスがわりと好きだから、素敵なものだと判断しているから、納得いく理由で好きになりたいのだ。あと、ありそうだから、っていうのもある。ほかの理由なんてないだろ――君は好きじゃない思想から生まれたものを好きになっちゃったんだ、というなら、最後には諦めてもよいのだけど、違うなら、探したい。