ビジネスとかは最適解がありそうで怖くて、でも、発想の可能性を舐めちゃ駄目だろとも思うわけです

▼発想を舐めるな、って話になってゆくのかなー、とビジネスに対しては思っている。同型の判断で、学問に対しても同じことを思っていると思う。というか、結局は「人間」に対して感じているのだと思う。発想は永遠に終わらなそうだ、とか判断しているのだ。究極などはなく、最終だってない。完結はなく、終着もなく、続いてゆく。いつだって越えられてゆく、し、いつまでも越えられてゆく。時代が進めば思考も進み、終わらない。だからつまり、完璧を前提にしなくていいし終焉も意識しなくていいぜ、って話で、派生させるなら、手遅れや志半ばや捨て石を恐れなくていいんだぜ、って形でも言えたりすると思う。打開可能性は常に開かれてるってことなんだから、なんて思っている。
▼というか、思いたがっている、のかな。結局「信じようとしている」んだろ、ってあたりが近似値ぽいな。▼ていうか。思うしかないじゃん、と言うべきかもだ。怖くて。
▼飽きてしまう機能や忘れてしまう機能が「発想は終わらない」の鍵なのかもだな、とか想像したりもしている。飽きてしまえることや忘れてしまえることが――意図せず消えてしまうという現象こそが、打開可能性を裏打ちしていて、許しているのかもなー、なんて考えてみたのだ。意外と妥当かもとは思う。理屈は通りそうだからだ。新鮮など所詮すべて幻想や錯覚に過ぎなくて、新発見は単に繰り返されているだけで、でも、繰り返しでもかまわない、っていうかほかにないんだよ、ということなのかな、とは思えたのだ。
▼だって否定できるところにはうまく立てないでしょう?と。別に例は誰だってかまわないけど、例えばヴィトゲンシュタインが、新発見をして、でも、指南も継承も受胎も死ぬまで行われることはなくて、だから忘れられて、葬られて、で、また、誰かが別個に発見して、新鮮! とか感じてしまって、嬉しくて、楽しくて、糧にすらなって、という意味があったとして、誰が否定できるってんだ、って思ったりしたのだった。