世界は称賛に値する

日記を書きます

漫画とDSとM家で遊んだこと

▼勤務を終えて、深夜に、連絡を貰って、遊んだりしていた。勤務終了後に携帯電話を確認する。という流れはもう癖だ。意識することなく習慣になってしまっている。勤務中は確認しないことのほうが多い。遙かに多いだろう。勤務に夢中なのだ、とは言える。わりと夢中なほうだ、と判断してはいる。早く終われ、とか、あんまり思う機会がない。明瞭な比較は無論不可能なのだけど、比較じみたことをするならば、つまり、対話や意見から判断するならば、思わないほうなのだろうな、と判断できていたりはする。のだ。勤務が好きじゃないよ全然、とか言えてしまう人間を、近隣に配置しすぎたかもしれない。という表現は、想像以上に支配者的かつ優越感的な雰囲気を醸し出してしまうから、例えば反感や違和を煽ってしまうことだってあるんだろう、というようなことを、はっきり意識してみた。視線を向けてみた。でもって、記述してみた。人間の自由意志については結構懐疑的である。干渉可能性を危ぶんでいる、というかな……。世界に干渉できるなんて気のせいなのかも、って思っている。だからこそ、逆に、時折こうして「喧嘩」を吹っ掛けてしまいたくもなるのだ。なんて言えるだろう。最後に逆転するためにねー、とも言えるかな。戦うことに一縷の望みを見出している、というか……。真剣勝負の中にしか救いの光を見出す可能性はないんじゃないか、とか思っているんだろう。たぶん。
▼漫画が並べられていた。ので、軽く『るろうに剣心』を読んでみた。連載時代はじっくり読んでいた。のだけど、連載だけでもあって、つまり、記憶は曖昧だった。記憶にないと感じるところが多かった。ルロウニ、は、流浪人、なのだろう。造語のようだ。と少し調査してみた。現時点まではほとんど着目したことがなかった。誰かの思索を読んだことすらなかったなあ、と思ったりもした。改めて考えると「意外に奇抜な発想だ」と感じるところはある。終盤数冊を読んだ。雪代縁編だ。衝撃的なほど憶えてなくてほんとうに衝撃的だった。普通にびっくりした。という「普通に」の配置が結構好きだったりする。
▼脈絡不明ながら『レイトン教授と不思議な箱』が異様に無闇に楽しまれていた。好みなので参加もしてみた。和気藹々と皆で問題を解いていた。やいのやいのなんのかんの言いながら、かしましく、DSを譲り合っていた。というか、奪い合っていた。なんて雰囲気は正直かなり好みであった。以前何処かでも似たような流れを践んだことがあって、酒の席で、レイトン教授の問題を解こうとしていたことがあった、と記憶に残っている。滅茶苦茶楽しかった。という場面の、いわば再演だったのだろう、なんて、楽しかった瞬間に対して言ってしまうのは駄目なんじゃないかな―、冒涜や侮辱なのでは? なんて思想を持ってはいるようだ。と、あえて話を飛ばしてみた。楽しい飛躍だったと言える。