根源的世界と勝手な切り分け込みで具体を認識可能かどうか

▼陽が危うい。翳っている。でも、間違いなく青空側だ。と言えることが珍しい。陽光を特別好んでいるわけではない。が、なんとなく嬉しくなった。起床は午前6時。
▼読書は『書きながら考えるとうまくいく!』を読む予定だ。昨日から読み始めた。
▼世界は一つの繋がりであって、切り分けは精神が恣意的に行っているだけだ。勝手な分節がある。だから、当然でも自明でも前提ですらない。ということをわりと前から考えてはいる。具体的というものをいまいち信じられないのはそのせいだろう。眼前にまるごとの世界があることは無論わかる。けれど、例えば蜜柑をどう信じればいいのだろうか。蜜柑を蜜柑と見なす視線は裁定者側のものでしょう? つまり勝手気ままな切り分けなんでしょう?。なのに、判断の事始めをそこに置いていいんだろうか。蜜柑だって抽象の結果なんじゃないのか? なんて気配が、具体的と抽象的の対極を躊躇わせていたりする。