誤魔化し無しに突飛な判断を持ちながら行動的には従わないような技術

▼もしや「思う」のは勝手なのか? なんて考えてみる。判断Aを思って、信じて、けれど、行動は判断Aに背信しながら、にもかかわらず、判断Aだと思うんだけど!と主張してしまうのは、実はアリなのか? アリなのかも、なんてぼんやり思ってしまうのは、決して「原理的に矛盾する」ものではないからだろう。あるいは「定義的に矛盾する」わけではないからだろう。というか、ない、と認識しているせいだろう。別に「発言」と「行動」が一貫する理由などはない。推奨は無論あるだろう。言うなれば一貫性というのは信頼性の裏打ちであって、社会的には有益だからだ。社会的有利が推奨されることは無論ありうる。けれど、ということが、別に「原理的に一貫に向かわざるをえない」ということを意味するわけではない。だから、アメリカの実在に疑義を唱えながらアメリカの存在を前提に動いたり、自己承認だけでオッケイさ的なことを謳いながら自己承認だけでは足りない素振りを見せたり、ということが、わりとアリだったりするんだろうか。前述した信頼性の問題で言うなら無論ナシなのだろうが、とりあえず現状だと視線は別のところを向いている。つもりだ。思想的に安定できるのかなー、という問題が対象だと言える。付け加えるなら、欺瞞無しに、ということも言っておくべきかも、ということも考えていた。