世界は称賛に値する

日記を書きます

克己の前提となる視線を意識しながら、今日は何処へ向かおうと考えてみるところ

▼誰かが見ている。神様が? 神様が。あるいは、己が。両者は同じものだろうか。多少違う印象はある。違う印象を持っている。言葉を換えるだけで別のものが胸中には誕生してしまうんじゃないか、とか最近は考えているからだろう。という思考の前提には何かしらのモデルがあるよな、ということも思う。根本的かつ統一的に何かを何かと見なす観点があるようだ、なんて感じる。視線の内面化、と言われるようなものは確実にあって、灰燼に帰す気配なんて微塵も感じられない。操作不能の予感がする。操れない、し、だから消せない。誰も見ていないから、とメタを見逃す時、欲望のままに、が体現できるのだろうか。違うかな。ソンナ単純ナコトジャナカロウ、というのは思ってしまう。欲望ってのは複雑だ。見通しは悪い。錯覚しまくっている印象すらある。欲望という概念がそもそも雑で脆すぎる。制御しづらくもなるよね、って思う。▼起床は午後2時。まったりだ。