世界は称賛に値する

日記を書きます

しあわせをこいねがうよ

▼誰かを幸せにしたい、という思いを――という願いを、傲慢あたりに位置づけたくはない。可能な限り避けたいなあ、と感じている。もちろん、過信や慢心の匂いもしないとは言えない。過信や慢心なんてまるでないぜ、とは断言できまい。過信による「幸せにしてみせる」的判断、慢心による「幸せにできるはず」的判断、は、ほぼ間違いなくありうるはずだからだ。容易に想像できる。同時に、根深いこともわかる。ないとは言えないことも、同様だ。だから、まるでない、とはやはり言えない。でも、この問題の「核」ではないだろう、とも思うのだ。排除不可能、ではないんじゃないか、と思える。つまり、幸せにしたい――と希うところ、から、過信や慢心を、綺麗に取り外し、丁寧に拭い去り、なお成り立たせること、が、可能なんだと思うのだ。無論、思いたいだけだろ、ということも考えてはいる。期待は判断を歪ませがちだからだ。でも、すでに考慮はしていて、視野狭窄はない、と言えるところまではきているかな、と言えたりもする。経験則的に言えたりする。つまり、判断を誤って知らずに「視野狭窄」に陥っていた時とは違う感触だ、と判断できている。無論、だとしても誤謬かもしれないけれど、ということも含めて考えているつもりではある。結局は勘違いに陥っている、という可能性まで含めて、ないぜ、と言っておかねば、みたいなところがあるのだ。覚悟の話である。何というか、謙虚と断言は両立できる、というのが、最近の思想ではあるのだろう。無論、発語を軽視することでもあるから、慎重にいかねばならないところもありつつ、ではあるけれど……。なんていう思考は、過信や慢心、を「避けたほうが良い」と感じていて、幸せにしたい――と希うこと、を「避けないほうが良い」と感じている、ことの「証」だろう、と言えたりもしそうなのだけど、このあたりどうなんだろうか、と時折考えたりもしている。単に、両者が対立しているから巧く整理してしまおう、と思っているだけのようにも思えるからだ。複雑で面倒だから粗雑に決着をつけようとしているだけ、という感覚はやはりある。ぼんやりある。だとしたら、どうなんだろう。信用に値するだろうか。つまり、よいものだろうか。迷っている。進みながら、ではあるけれど、迷うところはやっぱりある。