世界は称賛に値する

日記を書きます

机上の空論でも、まるで無意味ってことはないでしょう? むしろ、無理にでも嗅ぎ取れ、と言っておく

▼言葉遊びを無意味だと思ったことはない。というか、思いたくないのだと思う。明確な言葉遊びにさえ何かあると思いたい。言葉遊びで何かを生んでみせるぜ、とか、種火にはできるだろな、とか思っているのだ。あくまで取り扱いかたの問題だろう。なんて認識している。目標を立てたりする時などに、言葉遊び的要素を混入してしまう、のには、ぼんやり気付いている。言葉では何とでも言えるだろうけど、現実とか具体に即した場合、結局どういうところを目指そうとしているわけ? なんていう酷薄な疑問文を思い浮かべてしまうことがある。極端な比喩の例示になるけど、真夏のような人生、怜悧な人生、分厚い辞書のような人生、などを目指したい、なんていう表現でも、怪しげながら、何かは伝わるだろう、と思うのだ。雰囲気はわかる。というか、わかるような気がしてしまう。無論、繊細な危うさは承知している。誤解の種にもなりうる。慢心の匂いもあるだろう。だから、駄目かも、って思ってしまうことも、多い。多いが、無意味にはしたくないな、とも思うのだ。結局ゴミじゃん、とか認識して、排除してしまいたくは、ない。可能な限り汲み取ってはゆきたい。慎重や繊細を捨てなければ可能なんじゃないかな、って思う。今はまだ思える。定義が曖昧で、比喩が粗雑で、具体性に乏しくて、おかげで、明確明瞭素敵な指針、にはできない、としても、第一歩として、くらいなら、ま、アリなんじゃないかな、と思える。とか考えてきて、やっぱり捨てたくないな、って考えていた。言葉遊びみたいなところから始まる第一歩、を捨てたくない。じゃないと、複雑をちゃんと持った道のり、に近づけないような気がしてしまう、からだ。わけがわかる目標、ばっかりじゃあ、廃棄されてしまうような要素を、捨てないために、残しておきたい、なんて言える。