挽回可能なら落ち込むことはない、のかなと

▼無駄だろうか、という疑問と不安には支配も侵食も受けにくくなった。無駄や無益は挽回できる。というのが、いくらか持論と化したからだろう。意味付けなんてすべては後付けだ、とか考えているわけではない。いつだって「意味」は「今」立ち現れるのだ、あたりが近似値だと言える。現実とは現実とは何かと問う時にだけ現出する、あたりに似ていたりもすると思う。意味は継続して持続して永続して在り続けるのではない、なんて言えたりもする。維持、背景、ではなく、瞬間、局所。無駄や無益という意味に対して、だから、ずっとそうではない、と言えてしまう。言えてしまうようになった。最近はあまり無駄や無益に重きを置かなくなった。のは、そのせいだろう。挽回しておけ、と考えてしまう。挽回可能だろ、と思ってしまう。挽回できる、という盲信がある。ことにも触れておこう。信じすぎ、かも、とは思っている。君は君の力を信じすぎなのではないか。と問うてはいる。無論、答えは出ない。わかる時は死ぬ時だろう。というフレーズを考えて顧みて、笑う。全然違う、と笑う。死んだってわかりはしない。わかったつもりになった時だけわかる、でも、わかったつもりになってもわかっちゃいなかったりする。だけだ。