連想、だけで、思考、が可能なら、検討、検証、は、後追いかなと

▼現段階では「連想」のことを考慮している。連想こそ「考える」の基礎か重点なのではないか、と現段階では感じているからだ。運が良ければ「本質」という言葉が似合うかもしれない、とすら思えていたりする。連想があるなら検証と検討がなくても思考と呼ぶことができるのではないか、という問いを目の前にしている、とも言えるだろう。だとするなら、再検討、再検証、という表現は、あまり相応しくないものになりえるだろう。つまり、思考というもの全般、を、検証や検討の結果なのである、と信じてしまうのは危険になるだろう。言い変えよう。考エマシタ、に対して、検証や検討を持っている、と最初から信じるのは、浅はか、と言えてしまうぜ、ということだ。確かに現在の己は「思考」に対し「検証」や「検討」を組み込んでしまっている。相手に対し、考エマシタ、と言う時は、検証しました、検討しました、という意味を、間違いなく持たせている。最低限、通過はしている。でも、違うこともあるのではないか、を考えていたのだった。