悪と罪、とかは、発生順序(認識順序)は最初だけ問えて、両者を抱え込んだあとは、互いに支えあう柱になってしまう、みたいな関係性、なのかも

▼悪概念と罪概念、が持つような関係性がわりと好みである、とは言える。詳細はわからない。というか、詳細がわからない。複雑すぎるからだ。順番がばらばらすぎる。往路も復路も脱路も活路も袋小路も間道も裏道も獣道も片道も、いかんせんありすぎる、なんて思う。正直理解が追いつかない。が、だから好きなんだ、とは言えるかもしれない。
▼悪と罪。悪と罪は謎だ、とか改めて考えてみる。繋がりはどうなっているのだろう、という疑問が最初と最後にある。発生する順序が明瞭ではないな、と判断しているのだ。不思議なほど不明瞭である。はっきりしない。とりあえず、同時発生、の可能性は低いだろう、とは思っている。巧く想像できないからだ。が、可能性を真摯に問うのならば、巧く想像できるかどうか、なんて、誠実な根拠になったりはしない。だから、可能性云々は所詮言葉の綾に過ぎない、とかは言っておくべきなんだろう。現段階ではそう判断しようと思う、なんていう、戯言混じりの粗雑な宣言に過ぎない、なんてことすら思ってしまう。
▼順序が不明だ、と改めて考える。悪概念と罪概念の誕生日は、やっぱりはっきりすっきりとはわからない。だから、親と子を判別できない。または、兄と弟を判定できない。という比喩が的確かどうかもわからない。が、想像だけなら可能だろう、とは思う。悪概念が先行するモデルを考えることは、たとえばできたりする。悪概念がまず在り、悪概念に適合する行為を為す、ことで、胸の中に「罪」と呼びうるものが発生する、というモデルである。悪が直感できてしまう行為を為すことによって発生する胸の中の感覚、を、混合して統合して、すべてを「罪」と呼称する、というモデルも想像可能だろう。
▼が、逆も想像はできてしまう。つまり、罪概念先行型モデルも想像可能である。順序の逆転は可能なのだ。たとえば考えてみる。単純に行こう。脳裏に結果や未来を思い浮かべて「罪」の匂いが嗅ぎ取れるものを、というか、嗅ぎ取れることを「悪」と呼ぶ、なんていうモデルがそうである。わりとアリだろう、なんて思ってしまうところはある。
▼罪悪という言葉は便利なものだ、と思ったりもした。素材の選択が巧みすぎる。罪と悪の違いを見極めなくて済むじゃないか、なんて思った。けど便利すぎる、という罪悪感を覚えることもできた。思考停止の気配を嗅ぎ取ってしまったからだと思う。つまり、やはり、思考停止に対しては「悪」の気配を感じてしまっているのだ。でもって、普段通りながら、思考停止に対して「悪」概念の気配を感じてしまうのは、思考停止が結実させるであろう想像上の未来、が「罪」概念を刺激してしまうからなのだろう、とも思う。罪を思い起こさせてくれる。だから悪なんだ。なんて言葉だって言えたりする。
▼悪と罪。という概念をすでに認識してしまっている思考回路が「悪と罪が持つ順序」を改めて問い直してみたりするのは無理無駄無謀だったりするのだろうか、なんて考えてみたりもした。構造的に先行しうるのは悪概念あるいは罪概念である、なんて答えはやはりなくて、順序は、単に、遭遇する順序、に影響を受けるだけであり、結局は、互いの存在が互いの発生条件になっていて、最終的に「相互に影響を与え合う関係」に落着する、ということだけが性質として定まっているだけなのかも、なんて形で問題を考えてみたりもしたのだ。考えてみて、同時に、概念に関してはこの種の問題とか理路とか結論がわりと多そうだな、とも思った。同じ構造の問題を思い浮かべたことがある、とか感じてみた。
▼続けて思考を巡らせてみる。前述の思考過程や最終判断からも思考停止の匂いをぼんやり嗅ぎ取ってみた。注意せねばな、と思う。反省を閉じ込めようと思った。思考停止はかなりあっさり判断を魅惑してみせてくれる。油断できない。また考えよう、と思った。整理できないものはほぼ間違いなくありうるが、整理できないものだ、と判断して整理を諦める根拠はおそらくありえない。という結論すら思考停止のかけらを孕んでいる。