奪いやすい言葉、奪いにくい言葉

▼言葉の癖を奪うのは得意だ、なんて考える。考えてみる。というか、単に、得意だ、と思いたがっているのだと思う。だから、希望的に観測してしまうことが多いのだろう。つまり、誤認識している。無論、誤認識ではないかも、と奇跡を信じてみることも可能ではあるが、誤認識だと判断しているくらいが、適度と言える距離なのではないか、と、包括しては判断している。なんて前置きを書いてみる。先程『ゾラ・一撃・さようなら』を読み終えた。読み終えたばかりだ。だから、言葉の端々にモリヒロシ分を織り交ぜてみることがたぶんできる。できるだろう、と誤認できる。なんて思える文章書きは実はあまりいない。佐藤正午、秋田禎信、京極夏彦、西尾維新、という名前がぼんやり浮かんだ。独特で特徴的な言葉を使う書き手、というような形で認識するのが適切なんだろうか、なんて考えてみる。リズムやテンポ、という音楽的で音韻的な単語も浮かんだりした。連想や連鎖が異質で新鮮なのかな、とも思う。いずれにせよメリハリが利いているのだろう、というまとめすら思い浮かんだ。という文章はモリヒロシぽくない。ので、わりと嘘くさい。