記憶が捏造されても、記録を、記述を、多くしてみよう、と考える

▼記録を充実させよ、と思った。記憶の捏造に繋がろうと別にかまうまい、とは、思いのほか強く思っている。なにしろ、正確かつ精確を志すのは無意味なのだから。という言説はあまり好きではない。原理的に「完璧」にはたどりつけない、ということと、無意味や無価値、というものを、接続可能な領域には置いておきたくない、と、普段から以前から考えているからだ。ゆえに、完璧な記憶などないのだから記憶を捏造しても別にかまうまい、という理路は、鮮やかな形では成立しえない。つまり、繋がりうると判断していいと思えない。ゆえに、記憶の捏造を許容する別の現象を想定する必要がある。というか、現段階ですでに許容してしまっている、のだから、許容の理由になる別の現象があることを見つめ直さなければならない、のだと思う。単に、精確な記憶より多量の記録のほうが有益である、と思っているだけ、なのかもだけど、とは思う。なら、なぜそう思うのだろうか、に視線を向けることも可能だろう。考えつつ、記録を、つまり、記述を、多くしていこう、と思った。感覚が、アリだ、と言っている。無論、勘違いはありうる。ありうることを知っている。が、勘違いでないことも意外と多い、と判断してもいる。なので、恐る恐る、怖怖、戦々恐々、などを胸に秘めて、進んでみようかな、と思う。進行に関してはこればかりだな、と最近思う。慎重に、油断なく、手探りで、盲信せず過信せず、慢心もせず、足もとを一歩一歩確かめながら、進む、ということ。が、有益すぎる。