世界は称賛に値する

日記を書きます

綱渡りのような奮起と克己などが欲しかったわけではなく

▼奮起や克己が下手になっているな、と思う。雑になっている。というか、悪影響に繋がりやすくなっている。弊害が増えている、とも言える。不安定なのだ。諸刃の剣のようなものばかり扱うようになってしまった。なぜか癖がついてしまった。理由はいまいちわからない。思い当たること、が、むしろ多すぎる。違いがありすぎる。なぜ下手になったのか、を問おうとすると、当然「ではあの頃とは何が違うのか」あたりに、意識が向く。視線が向く。問いを向けてしまう。でも当然、かつてと違うところ、なんて、もうごまんとある。無数にある。数え切れないほどある。歳をとったからではないか? なんて風に問うてみるなら、確かにそういうところもあるだろう、とたとえば思えてしまう。いくらか偉くなってしまったからではないか? 新しい生活にも慣れて緊張感が薄れてしまったからではないか? おおきな挫折を経験してしまったからではないか? 真剣に思いをぶつけあえる相手と時間が減ってしまったからではないか? 恋愛感情を向けられるような相手がいなくなってしまったからではないか? あんまりテレビゲームをやらなくなってしまったせいではないか? 読書傾向が変わってしまったからではないか? なんて、とりあえず言葉にするだけなら、いくらでも言葉にできてしまうし、妥当性だって思いのほかあるように思えてしまう。でも、はっきりはしない。的確で適格な「答え」が前述の「答え」の中に紛れているのかもしれないし、やっぱりはっきり視線がズレてしまっている可能性だってありうる。複合回答の可能性だってあるだろう。だから、こういう環境の変化がこういう状態の変化を呼び起こしたのだ、という判断なんて、しても、あまり意味がないのかもしれない。でも、しないわけにはいかない。あまり意味がないかも、は、だからしなくていいよ、には、おおむね繋げることなんてできない。ということくらいは、いちおう経験的に理解している。というような「理解」の積み重ねが――つまりは、思考停止の繰り返しが、世界を浅はかなものにし、漫然とした不安の源泉になってしまったのかもしれないな、なんて考えたりもする。と考えた時点で、打破できると思う。打破できると思い、信じ、行動に移していたのが、かつての自分だと思った。思ってみた。幻想と錯覚かもしれないが、幻想でも錯覚でもかまうまい。変化に繋がるなら濡れ手に粟だ。