シタゴコロ、が認識されうる「構造」

▼シタゴコロ、について考える。考えている。整理できていない雰囲気がかなり強かったからだろう。強かったから、再び問いかけ始めてしまった、のだと思う。現在の「粗雑な判断」では、実際的で物理的な行為や行動を誰かしらに観測されても、読み取られることがないように、選択的に隠蔽されている――意志的に隠匿されている、対象の行動や行為の「背後」に位置づけられた「本心的な心情」のことを、シタゴコロ、と、特別扱いして呼ぶのだろう、なんて形で理解している。という形で理解するようになった。
▼隠蔽セネバナラヌという「補正」がかけられた本心、なんて表現してもいい。なんて定義は可能だろう。ゆえに、動きから「シタゴコロ」を読み取ることはできない。時に「本心」は読み取れても、定義として「下心」は読み取れない。無論、絶対にできない、ではない。隠蔽側の技量不足はありうるからだ。隠し切れていない、ということは、当然ながらありうるからだ。だから、厳密に言うなら、動作や所作を解釈しても「シタゴコロ」を読み取れることは、少ない、と言うべきなのだろう、とは思う。つまり、読み取れない場合が多い。読み取れない確率が高い。でも、読み取れることもある、だ。
▼とはいえ、隠蔽セネバナラヌ、と欲する気持ち、が「シタゴコロ」というものの核心になりうることは、間違いがないだろう、とも思う。つまり、可能な限りこの心情の読み取りを不可能に近づけなければならない、と切願し、読み取り不可、を実現するために、意志的に選択された「行動」が存在しなければ、ここで言う「シタゴコロ」というものもまた、存在することはできないだろう、と思うのだ。存在が許されない、とさえ言える。
▼シタゴコロ、について考える。考えている。整理できていない雰囲気がかなり強かったからだろう。強かったから、再び問いかけ始めてしまった、のだと思う。現在の「粗雑な判断」では、実際的で物理的な行為や行動を誰かしらに観測されても、読み取られることがないように、選択的に隠蔽されている――意志的に隠匿されている、対象の行動や行為の「背後」に位置づけられた「本心的な心情」のことを、シタゴコロ、と、特別扱いして呼ぶのだろう、なんて形で理解している。という形で理解するようになった。
▼隠蔽セネバナラヌという「補正」がかけられた本心、なんて表現してもいい。なんて定義は可能だろう。ゆえに、動きから「シタゴコロ」を読み取ることはできない。時に「本心」は読み取れても、定義として「下心」は読み取れない。無論、絶対にできない、ではない。隠蔽側の技量不足はありうるからだ。隠し切れていない、ということは、当然ながらありうるからだ。だから、厳密に言うなら、動作や所作を解釈しても「シタゴコロ」を読み取れることは、少ない、と言うべきなのだろう、とは思う。つまり、読み取れない場合が多い。読み取れない確率が高い。でも、読み取れることもある、だ。
▼とはいえ、隠蔽セネバナラヌ、と欲する気持ち、が「シタゴコロ」というものの核心になりうることは、間違いがないだろう、とも思う。つまり、可能な限りこの心情の読み取りを不可能に近づけなければならない、と切願し、読み取り不可、を実現するために、意志的に選択された「行動」が存在しなければ、ここで言う「シタゴコロ」というものもまた、存在することはできないだろう、と思うのだ。存在が許されない、とさえ言える。
▼だから、シタゴコロという概念の本質は「心情」ではなく「行為」にあるのだ、なんて言うこともできるんじゃないか、と思ったりもした。隠蔽せねばならぬ、という気持ちも無論、重要だけど、行為がなければ、結局「シタゴコロ」は生まれない、というか。過言かもではある。以前、乖離、という言葉で表現されていて、かなり納得させられたこともあった。行動と心情の繋がりがはっきりと乖離していること、が「シタゴコロ」とかいう概念の鍵になるのかもしれないな、なんて思ったのだ。距離がないと「シタゴコロ」とは認識されない。認識できない。でもって、隠匿を意図した行為、がなければ、距離も発生しない。ゆえに「シタゴコロ」もない、という構造である。うん、と思った。