ただ、こうである、と状況判断してみただけ、は、アリ?

▼状況判断、事態判断、性質判断、因果判断、影響判断、位置判断、背景判断、なんていうような「対象はどういうものなのか」「対象はどうなっているのか」的な判断群は、結局「価値判断」に接続しなければ、別に問題視しなくてもいいんじゃないか、なんて、時おりは思ったりする。つまり、尺度として『良い‐悪い』を持ち込まずに「ただ「こうである」と判断するだけ」なら、問題になったりすることはほとんどないのではないか、と思えることがあるのだ。ただ、こうである、という視線が、問題を勃発させてしまうような状況が、うまく思い浮かべられないからだ。▼けれど無論、ただ、こうである、と判断しただけ、なんていう視線なんて、実際にはありえない、という判断もありうるだろうとは思う。状況を判断したら、無意識に、自動的に、価値も判断してしまうものなんだ、という「判断」である。確かに、好き嫌い、とか、良い悪い、を、判断しよう、と決意してから判断しているわけではない、とは言える。かなり言える。価値判断、なんて、したりしなかったり、好き勝手にコントロールできるものではないんだ、という理解は、わりと妥当だろう、と思えたりする。▼でも、淡々と「ただ、こうである、と判断しただけ」と言えるような、状況を理解しようと努めてはみたけれども、別に、価値を決定しようとは思わなかった、という形の、認識をすることも、ままあるよな、とも思うのだった。時おりは可能なようにも思えるのだけど、と思うのだった。▼素直に考えると、あんまり興味がないと、というか、あんまり関係がないと、なんとなく「価値判断」までには至らないことが多いかもしれないな、なんて思う。思えた。おのれに対する影響があまりない、と判断できると、こういう状況なのかな――まあ別に、どうでもいいけど、みたいな淡々判断が可能になる、んじゃないか、って思う。▼という構造だろうか。で、という構造を観察していて思った。なんとなく「価値判断」してしまいたくなる「何か」(――自分に影響がありそうだ?)が対象に含まれていると、無意識、かつ、自動的に「価値判断」が起動してしまうから、結局は誰も「価値判断」からは逃れられない、なんてことは、確かに時には言うことができるのかもしれないけれど、その「価値判断」を誘う「何か」を、視線や解釈を変質させることによって、強めたり、弱めたり、時には消滅させてみたり、できるかどうか、っていうのは、同じ問題として捉えていいんだろうか、って思う。