まわりの目標を推測しておいて、無言で手伝っているようなひと

▼賢さが垣間見えるのが好きだ。賢さが解釈できるのが好きだ。頭のいいひとだなあ、と言える「判断」が好きなのだと思う。嬉しくなったりさえする。だから、嬉しくなってしまった。思わず笑ってしまった。わかりづらく補助されて、気づきづらく援助されて、断言しづらく加勢されて、でも、なんとか認識することはできて、ありがとう、と思うこともできたのだった。▼しばらく観察していた。経験を思い返してもいた。正確には、前から考えてもいた。たぶんあのひとは、まわりにある「目標」をきちんと推測しているひとなのだろう。見ていて、そうだろう、と思えた。まわりを観察しているのがわかった。観察からの思考――観察からの推測、が背後にあるのがわかった。あのひとはいまこう動いているから、こうなることを目標にしているのだろう、がゆえに、じぶんはこう動けばいいのではないか、なんて考えているのがわかった。気遣いが解釈できた、なんて言ってもかまうまい。▼稀有な思考だ、とは思ってしまった。観測経験があまりないからだ。解釈経験があまりないからだ。記憶にあまりない。が、賢さを見た経験があんまりない、に関しては、単に「基準が狭すぎるだけ」なんじゃないか、と思ってしまうこともある。賢さが具体化した時の形状を詳しく知らないだけなんじゃないか、なんて思ってしまうことがあるからだ。▼図抜けた知性を背景にして実践される行動、には、多くのバリエーションがあって、でも、あまり幅広く知らないから、対象になりうる行動を眼前にしても「図抜けた知性」を解釈することができなくて、結局見逃してしまっているんじゃないか、とは思ってしまうことがあるからだ。▼時には怖くなることさえある。▼が、かまうまい。と思った。見逃しがあるにせよ、見逃してない時もあって、間違いなく幸せな感じで、この歓喜があれば、悪くないぜ、ってしばらくはやっていけるだろう。燃料にしていける。だから、この燃料を燃やして、見逃しをがしがし少なくしていこう。していけるところだけしていこう。なんでもはできない。でも――だから、できる限りのことをすればいい。できないことはできない、でも――だから、できることはできる、んだ。