世界は称賛に値する

日記を書きます

墓参りを終えて、焼肉を食べて、醜悪を考える

▼酒を酒と意識して飲むことは少ないな、と改めて思った。好きだからではない。嫌いだから、のほうがまだ近い。が、実際は嫌いでもない。単純に「興味がない」のだ。酒でもジュースでも同じようなものだろう、なんて思っているのがわかる。たとえば「ジュースを飲みたい」と思う時に、オレンジジュースでもアップルジュースでもどっちでもいい時がある。喉が渇いたときに、冷たい飲み物なら何でもいい、と思うこともある。というような「気にならなさ」を、酒とジュースの境界線には感じているのだ。酔いに対して「良さ」も「悪さ」も感じていないから、というのもあったりするんだろうな、とも思った。
▼飲みながら、考えていた。聞きながら、考えていた。酔いながら、考えていた。なぜ誰かの行為に「醜い」と感じてしまうことがあったりするんだろう、と考えていた。たとえば、詐欺的活動によって金銭を稼いでいる人物がいて、彼が「懐に余裕があるなら苦しんでいるどこかの誰かのためにちゃんと寄付すべきだ」とかいつも言っていて、けれど、彼自身は寄付などまったく行うことがなく、むしろ、詐欺的寄付を捏造することでおのれの懐を潤していたとする。詐欺が法的に断罪される、は別の問題として置いておいて、彼の行為は「醜い」のだろうか。醜い、とは思う。思ってしまう。のだけど、醜い、と判断しうる理由はどこにあるのだろうか。時おり「おのれを騙している」のは醜いぜ、とかは思うことはある。いわゆる「欺瞞」が醜く思えはする。背後に「惰弱」の匂いを嗅ぎ取れるからだろう。でも、彼の背後に「欺瞞」などはない。ない、と想定して考えている。想定して考えても「醜い」と思えてしまうからだ。ならなぜなのだろう、と考えていた。