世界は称賛に値する

日記を書きます

私の犬まで愛してほしい

私(わたし)の犬まで愛してほしい (集英社文庫)

私(わたし)の犬まで愛してほしい (集英社文庫)

 しかし出不精のぼくが五日つづけて狸小路の映画館まで足を運ぶ気になったのはやはり、女優の奥の深い演技に魅せられたためだけではない。仕事をする作家の横顔をこの映画ほどたんねんにしつこく描いたものを他に知らなかったからである。ぼくは映画の筋立てを追うまえに、そして女優の才能に感嘆するまえに、いちど駄目だと言われた原稿を打ちなおす作家の辛抱強い指先に見とれ、とうとう完成した第二稿(それは今度はハメットに認められる)の末尾にTHE ENDを幾つも幾つも叩きつけて最後の煙草に火を点ける作家の満ちたりた表情に見とれ、五日間見とれつづけた。
 昭和五十三年の十月。東京では広岡ヤクルト・スワローズが優勝を決め、原子力船むつは佐世保へ向い、札幌では早くも初雪が降り、暗い大学生は映画のなかの作家に心をうたれて、それまで何度も書きかけては放り出していた小説に、一つでもいいからTHE ENDを付けたいと考えた。そういうと、結局は映画の主人公の真似をしたくなったわけで、我ながら軽薄に思えて調子がわるいけれど、ぼくが最初の小説を書きあげる決心をつけた理由の一つに、映画“ジュリア”があるのは確かだからしようがない。だいたいどんな理由からであろうと、国文科の授業にもついていけないくせに小説を書こうなどと考えた大学生は根が軽薄にできているのである。翌年ぼくは生れて初めて小説の末尾に終りと書いた。そしてそれが始まりだった。一つの小説に終りと書くともう逃げられないのである。現実は映画のように二時間で幕を閉じて終りではない。その場かぎりで終るのは満ちたりた表情と最後の一本の煙草の味で、もしそれが忘れられないほど魅力的なら、また最初の一本から始めるしかない。すなわちぼくは二つめの終りを書いて駆け出しの小説家になり、そして今日、決しておしまいになることはない。THE ENDを打ちつづけることが君の選んだ仕事だと、編集者から新作の小説を催促する電話がかかる。
――P.38