世界は称賛に値する

日記を書きます

意識から『自由感』を消し去れるか?

決定論的な世界観を採用して『世界』を『観る』ことは可能な気がする

▼いつでも『自分』だけは不確定要素に見えてしまうものなんじゃないか、なんてことを考えてみた。極度の決定論者であったとしても、いわゆる『自分』というものだけは、やはり『不確定要素』に見えてしまうんじゃないか、なんて想像できたからだ。というか実際は想像してしまったのである。逆のパターンが想像できなかったからだ。▼完璧にではないにせよ、決定論的な視座で『世界を観る』ことは、可能なことのように思える。因果がすべて確定されていて、単に『起こり得ることが起こり続ける』だけの単純な世界、と表現できるような『決定論的な世界』として『世界』を『観る』ことは、ある程度ならば可能だろう、と思えたのだ。▼が、たとえ無茶苦茶精密な形で『決定論的な世界』を想像してみたとしても、けれど『自分』の前だけには『何故か選択肢があるように』見えてしまうんじゃないかなあ、なんて、思考の主旋律ではどうしても思えてしまったのだった。

けれど、何故か自分だけは『心底決定論的なもの』に観えないような

▼簡単に言えば、選択に悩むことのできるような『選択肢』が『自分』の前に微塵も存在していないような世界、というやつが、いくら努力しても意識の前提および背景として展開できなかったのである。▼無論厳密に言うなら、まるっきり『選択肢がない』というわけではなくて、いちおうは『選択肢が存在する』ように見えていながら、けれど『意思の前に選択肢があるように見えること』すら、究極的には『決定的』なことなのである、という世界観を採用すべきなのだろう、と理解してはいる。のだけど、きちんと『決定論的な世界観』を突き詰めていっても、やっぱり『自分』というものだけは『決定論的』なものにはなりえないのではないか、と思えたのだった。▼暇だし何かしようかなあ、と例えば人間は考えたりする。という場面で、おのれの意思によって選択しているように見えていながら実際のところは選択などまるでできていない、という『決定論的な前提』を思考背景として描き出すことができないなあ、と感じたのだった。あるいは、世界観をいくら変幻させてみても『おのれの意思で選んでいる気分』を拭いきれる気がしなかった、とか表現してもいい。別に視点で言うなら、確定された未来しか見えないような世界観を人間は持ちえないのではないか、なんていう疑問に変化させることもできるかもしれない。