世界は称賛に値する

日記を書きます

意味って本当に『使用』だけなのか?

世界をよくする現代思想入門 (ちくま新書)

世界をよくする現代思想入門 (ちくま新書)

 ウィトゲンシュタインは、「意味」を考えることには「意味がない」のだと言います。単純に言うならば、ある言葉で示された概念に「意味が存在する」と感じるのは「錯覚」であるということになります。「意味がわかる」とは、「ある状況の中で、その語を適切に使用できることができるようになる」ことを示しているのであり、そのような「現象」を「意味がわかった」と表現しているだけだということです。たとえば私たちは、「電波」という単語の「意味」を知っていると感じていますが、実は「電波の本質」を知っている人間はどこにも存在していません。「光」であっても、「生命」であっても同じです。私たちは、それらの語を「ある状況やある文脈の中で、適切に使用できる」だけです。ウィトゲンシュタインはそれを「言葉の意味とは、使用である」と看破しました。
――P.63

▼きっちり腑に落とせていないのはここなんだと思う。意味とは使用である、という判断は物凄い慧眼だと感じるし、ほぼ同じ視点に立てるようにも思うし、納得できるところもかなりあるのだけど、どこかしら腑に落ちていないところがあるのだ。話を聞いて『確かにそうだな』なんて思いながらも『意味』という言葉を結局その感覚で使おうとしていない、のがわかるからだ。要するに、世界観が塗り変わらなかった、のである。言語ゲーム論的な『意味』という形式でこれまでに心で感じていた『意味』を捉えなおすことができなかった、なんて言ってもいい。思考不足なんだよ、という可能性は無論残しつつだ。