結局のところ『私的言語の否定』がどこかで納得いってない

哲学の謎 (講談社現代新書)

哲学の謎 (講談社現代新書)

▼整理しようとするとするっと逃げられるので、諦めて、ゆったりした気分を保ちながら雑然と言葉にしてみた。哲学系の思考でいまいち納得できていないところについてだ。いわゆる『言語ゲーム』に関する不思議についてだ、なんて言ってもいい。▼怒りというものを表に出すことが彼は死ぬまで一度もなかったけれど実は彼は怒っていたんだ、という認識は『無意味』らしいよね。無意味なんだ、と聞いたことがある。というかむしろ『無意味』の定義がそれなんだ、という話すら聞いたことがある。確かにそうかなあ、とは実は思う。論理の連結がわりと面倒だからこのあたりぶっ飛ばすけど、俗に言う『私的言語の否定』っていうのもこれと同じ構造を持っていたりするんだよね。自分の心の中にこうしてある――というだけの判断はつまり『無意味』なのである、って感じになるんだと思う。だって誰にもわからないからね、とか言われたりするわけ。結局誰にもわからんからね、っていうのが要するに『無意味』の定義だってことだ。でもさあ、実際『自分』に関しては違うじゃん? あくまでも想像の話ではあるけど、怒っているとは死ぬまで(=事後的に根拠が生成される可能性がなくなるまで)誰にも認識されたことがなかったにもかかわらず心の中で実は凄く怒っていた自分、というのは想像できるんじゃないかなーと思うわけさ。私的言語の『アッカッカ』(野矢茂樹氏の『哲学の謎』より)は、だけどこんなのまでアリだって言い始めたら何だってありじゃん? 誰にもわかんないわけだし、という方向で否定された(というほどではないにせよ、突っ込まれていた)ように思うんだけど、何でもありだろうがなしだろうが――好き勝手すぎるせいでほかの誰にも理解されなかろうが、ありうるものはありうるものなんじゃないの? とか言って無理矢理続けるのはなしなのか? 想像できるならば『ない』とは違うんじゃないか、とかいう感じで無理矢理続けてしまうのは駄目なのか、とか思ってしまったわけだ。▼でもさあ、それってば『想像できて』んのか? できてるって証拠はどこに求めればいいわけ? だって『誰にも聞けない』のに。そもそももしそうだとするなら、定義上それは結局誰に語っても無駄な話なわけで、だから否定されるんじゃないの? それが『語りえないものには沈黙しなければならない』ってやつじゃん? むしろ語ってどうする、っていうか。▼いやまあ確かにそうかもだ、とは思う。でも、絶対誰にも通じないけど『俺のみ』考えられることが、言葉ってそういうもの(対他的なもの/制度的なもの)だから、っていう理由だけできっちり否定できちゃうの? とりあえず否定しとこう――語りようないし、通じようないし――隅に置いとこうぜ、みたいな諦め、ってだけなんじゃないのかな? 言葉で思考してんのにそれを問題にしちゃうのはズルじゃん、みたいなこと? まあ諦めなんだろうな、とは思ってたりするんだけど。多分、すっきりしちゃってるのが納得いかないんだと思う。ざらつきを残しておこうぜ、というか。すっきりしてないのが永井さんの思考なのかな、と連想的に考えてみたけれど、微妙だ。▼乱雑すぎたかも。おもしろくはあった。