サウンドトラック(古川日出男)

サウンドトラック〈上〉 (集英社文庫)

サウンドトラック〈上〉 (集英社文庫)

《★★★★★》

 カナは目覚めつづけてユーコを観察する。教室でのユーコは熱心に勉学に励んでいる。ただし遅刻しないかぎりは。そして絶対に午前の授業の二分の一は遅刻して欠席する。「生徒の自主性を尊重する」という建て前のある私立校でなければ停学になっていただろうが、黄色い毛髪と同様に、口頭で注意されるだけに止まって懲罰は強いられない。それにテレジアはこの時期、生徒数を減らしつづけて、出席した以上はひたむきに授業に集中する少女を排除する余裕はない。遅刻ガールは、だが例えばトイレでの出会い頭に、カナが直感するところの重心の移動を洗面台の前で練習していたりする。ふるまいは全然優等生ではない。その重心の移しかたは、恐ろしいフットワークの天才を予感させた。カナが初めて視野に入れて、あれは注目に値するとただちに確信したように、やはり凄絶な何かがある。ダンサー? 連日、カナがユーコを観察していると、ユーコもまたカナをちらちら見て、予告なしに眼前で踊りだしもした。だが下足室でのファーストコンタクト以降、接触は軒なみ軽いレベルに留まる。距離(レンジ)もきちんと取られている。ダンスをそれこそ抜刀(ぬきみ)を鞘に収めるように断ち切って終えたユーコが、不思議な顔をしてカナを二、三秒だけ凝視する情景が一度成らず繰り返される。凝視の後には立ち去る。
 それでもガールたちの化学反応はたしかに起きた。
 奇妙な感覚がカナと体内を通過する。ボディブロウ、とカナは思う。あたしは打たれている。じわじわ、効いてる? しかも連打だわ! この時点ではまだカナは自分がダンスに罹ったことを知らない。踊り手になるための細胞が自発的に疼きはじめていることを感知していない。その肉体はボクシングのためにあり、カナは世界を殴ろうとしているだけで、四囲にロープの張られたその闘技場から外には出ない。まだルール無用の闘いというものを視界に収められない。それでも、ユーコと接触するたびに変化は生じる。自動的な選択にカナは突き進んでいる。
――P.299

▼凄い、と思った。現状の私が『小説の良さ』というものを突き詰めていったとき、おそらく最後に辿り着くのはこのあたりなのではないか、とすら思った。無論『小説』というものにはさまざまな『良さ』がある。だから、多様性を考慮してなお『いいものだ』と断言したくなる、なんて表現に変換してもらってもかまわない。下巻が残っている。幸せを思う。簡潔に言うなら、音楽を小説でこんな風に描けると思わなかった、と言える。