たくさんの問いが立てられる、という現象が好き

▼問いを乱立させられること自体が好きなんだな、と唐突に自覚した。観察した眼の前の現象に向かって人間はさまざまな問いを打ち立てることができる、という事態そのものに対して愉快を感じているらしい、なんて考えてみたのだった。哲学というものが好きなのもおそらくはその一環なのだろう、と思う。むしろそれこそが『哲学』というものなのではないか、と考えていたりもする。▼この文章は嘘である、という比較的有名な文章を例題にして思考を進めていた。嘘なのか嘘じゃないのかはっきりしてくれよな、というような『問い』を背景にして語られることの多い文章である、と認識している。が、この問題に対してまったく別種の『問い』を向けることだってできるはずだろう、なんてことも思うのだった。この文章を書いてほかの人間に見せようと思ったときにその人が抱いていた気持ちは何なのか、というような『問い』や、こういった文章の持つ意味を人間に対して教示することでどんな変化が予測できるのか、といった『問い』が思い浮かぶ。というような『問い』が思い浮かんだのは、最近の私の思考が『言葉の背後にある論理構造』と同じくらい『発言の背後にある心理構造』に興味を持っているからなのだろう。▼問いを拡げることで、例えば、結局『嘘なのか嘘じゃないのか』なんていう疑問は実際にその言葉を使った人間の心理を把握しなくちゃ何とも言えないんじゃないのか、とか考えたりすることだってできるようになる。問題のほかの面が見えてくる。人間が多面的であるのと同じくらい問題だって多面的なものなのだろう、と思った。逆転させて言うならば、ある問いのもとで綺麗な答えを返せたからといって安心してはならない、ということなのだ、とも思った。問題が多面的であるならばその解答はあくまでも一面に対する納得でしかない可能性が高いから、だ。肝に銘じておこう、と改めて思ったのだった。