世界は称賛に値する

日記を書きます

暑さは戻り、会議は進み、過去を改め、麦酒を呑んでみる

▼最高の動きを選択していこう、というような思考を『指針』として意識の隅に設置しておくことがある。たとえそれが誰かを大切にすることだろうと――たとえそれが誰かを傷つけることであろうと――たとえそれが会話であれ――あるいは議論であれ――あるいは観賞であれ――運動であれ――応援であれ――支配であれ――仕事であっても――遊戯であっても――睡眠であっても――操作であっても――もしくは依存だろうと――時には思考だろうと――正直なところ『おこない』は別になんだってかまわない。具体的な行動がなんであれ、おのれが何かをするのであれば最高の動きを選択したいものだよな、なんて考えてしまうことがあるのである。対象がどんなものであれ『最高のやりかた』がきっとあるはずで、だからできるだけ手を抜くことなく状況に合わせて『理想的なやりかた』を追求していこうと思う、という決意として表現してもいい。輝かしく誇り高い人生、というようなものはこういう道の先に存在しているんじゃないかな、と想像かつ妄想しているからだ。▼なんていうようなことを京成線の電車に揺られながらぼんやりと思考していたのだった。軽くうとうとしてしまいながらだ。移動の目的は会議の参加にあった。とかいう奇怪な文章が最近は妙に好きだ。なんかこうぎざぎざしているよなあ、とか思ってしまう。なんだこれ、とまで思ってしまうこともある。おそらく『見慣れた文章』があまり好きではないのだろう、と考えている。ゆえに、会議に参加するために移動していた、というようなシンプルでわかりやすいな文章が描けない、わけだ。描こうと思えない。真剣に嫌悪している、というわけでは無論ない。ただ単に積極的に記述しようとは思えない、というだけのことではある。違和とか抵抗をあえて感じさせる、という戦略を最近の自分は好んでいるらしいな、なんて判断を思ってしまった。印象が刻む創傷をそれによってより深刻なものにしようしているのだと思う。経験則的に選択された戦略だろう。