世界は称賛に値する

日記を書きます

見慣れぬ部屋と将棋の思考

▼遠足でバスに乗るときは景色を眺めながら風を浴びているのが好きだった。単独で世界に向き合っている雰囲気、なんかが好きだったのだと思う。別に人と会話するのが嫌いとかいうわけではなかった。なかったけれど、独りで真剣に思考している、というのが、妙に好きだったのである。かつてああいう気持ちを持てていたからこそいまの自分があるのだろう、なんて思えていたりもする。素敵なものだった、と判断できているわけだ。ありがちなものなのかもしれないけどね、というような判断も持ってはいる。持っているのだけど、誰もが経験する、程度のことでこの気持ちの持つ素敵さを貶めることはできないよなあ、とも思っているのだった。▼なんてことを考えながら、見慣れない街並みを眺めていた。助手席。強い風。運転席にはミヤ氏に座り、後部席にはシタ氏が座る。いつも運転してもらって悪いなあ、と少し思った。運転免許は持っていない。引越しの手伝い、が活動の目的だった。電器屋で冷蔵庫と洗濯機を受け取り、勢いでタコヤキプレートまで購入してしまう。無茶だなあ、と笑った。ひさしぶりに将棋の対局をおこなったりもした。将棋はわりと好きだ。が、わけがわからないぜ、とは以前から思っている。ともすれば苦手なのかもしれないな、なんて想像していたりもする。指針がわからないのだ。▼荷物を運び終えたあとは、オリジン弁当で弁当を買って、みんなで食べながら、だらだらとテレビを眺めていた。最近はこういう『まったり空間』に包まれると『いまここにいること』を対象にして思考を駆動させてしまうことが多い。なぜか連想してしまう、のだ。思い出というのは大抵そういう形をしている、ということに気づいてしまったからなのだろう、と判断していたりする。なんでもないようなことが幸せだったと思う――というやつだ。かつて在った『まったり空間』にこの人間は『幸せ』を見ることが多い、という『おのれの思い出』が持っている傾向性に気づいて、普段からなんとなく意識を向けるようになってしまった、わけである。日常を大切するようになった、と言えば聞こえはいいだろう。無論質的にも悪くはあるまい、と思っている。比較的嫌いではない思考である。