世界は称賛に値する

日記を書きます

人生の意味の想像と崩壊と再製と真似と以下繰り返し

▼ここに生きている、という観念の前提が『人生の意味』を創造する――想像させる。どうせいつか死ぬ、という観念の侵略によって『人生の意味』が破壊される――崩壊してしまう。いつか死ぬかもしれないがそれでも確かに私はいまここにいるじゃないか、という観念の構築が『人生の意味』を再生する。再製させる。▼人生には意味がある――人生に意味なんてない――だから人生の意味はおのれで作り出していくものなのだ。というような『人生の意味論が通る流れ』について考えていたのだった。▼いつか死ぬかもしれないがそれでも確かに私はいまここにいるじゃないか、という観念を背景にして生きている人間と、ここに生きている、という観念を背景にして生きている人間、の持つ『表面的な違い』はわりと少ないのではないか、と想像している。盲信している者、と、覚悟している者、が、似て見えるのと同じである。だから、子どもなんかが『いつか死ぬかもしれないがそれでも確かに私はいまここにいるじゃないか、を前提にしている人間』を観察したとしても、たぶん『ここに生きている、を前提にしている人間』なのだと解釈してしまうんじゃないかなあ、と思ったりもする。▼がゆえに、子どもには『ここに生きている、を前提にしている人間』ばかりに見えるのではないか、なんて想像してみたりもした。未熟な人間が観察しただけでは『人生に意味なんてない』という観念の侵略を経てきたことなど観測できないだろうなあ、とか思ってしまったわけである。結果として子どもは、最初の前提に『ここに生きている』という観念を組み込んでしまうんだろうなあ、と思った。人間の思考は教示されたものを盲信することから始まるのだろう、と思っているからだ。無論いずれは『どうせいつか死ぬ』という観念の侵入によって自明な『人生の意味』が破壊されるのだろう、とは思う。無論いつかは『いつか死ぬかもしれないがそれでも確かに私はいまここにいるじゃないか』という観念の構築によって人生の意味が再生されるのだろう、とも思う。▼が繰り返されるのだろう、とか思ったのだった。子どもが『いつか死ぬかもしれないがそれでも私はいまここにいるじゃないか、を前提にしている人間』を観察して、短絡的に『ここに生きている、を前提にしている人間』だと解釈し、真似し、いずれ人生の意味が破壊され、再生され、再び子どもに真似され――以下繰り返し、だ。