世界は称賛に値する

日記を書きます

防火管理講習/二日目

▼講義を聴講者が聴いている光景、を静かに観察していた。講義内容だけに意識を絞って話を聴くような人間ではなくなってしまったなあ、なんて考えていた。おおむね現実は複雑である。講義、という場面であれ、実際には講義内容だけが単純に存在しているわけではない。講師がいれば聴衆もいる。机も、椅子も、ディスプレイも、スピーカーも、教本も、ノートも、存在する。風景だってあるし、言葉だってあるし、心だってあるに違いない。過去もあるだろう。未来もあるだろう。目的も、躊躇も、誤謬も、神秘も、謎だってあるに違いない。ここで言う『ある』というのは、見出せる、と定義していい。▼たまに泣きたくなってしまうほど複雑な世界だけど、比較的うまく単純化することが人間にはできたりする。人間の知性が持つ優秀な能力の一つであろう、と判断していたりもする。単純化能力により、講義的なものは『講義』というスキーマにまとめられる、わけだ。以前はそれに頼りきりだったなあ、と思う。講義的なものは単純化によって『講義』としてわかりやすく認識され、あとは特に意識することもなく講義内容だけに集中してしまい、実際には複雑なはずの『ほかのすべて』にわざわざ意識を向けようと考えることなんて、ほとんどなかった、のである。▼最近はそれをするようになったなあ、なんてことを考えていたのだった。既存のスキーマにあえて逆らうようになった、というわけだ。無論正確に言うならば、単に『スキーマに逆らうスキーマ』を形成した、ということなのだろう、とは思う。この変化はいいものだろうか、と思った。いいものだろうな、と思えた。わりと嬉しく思う。▼秋葉原で防火管理講習なるものを受講したのだった。話を聴きながら、講師の声音に意識を向けて『声質や発声法というものは人間の理解力にどんな影響を与えるのだろう』と考えたり、部屋の構造に意識を集中させて『この建物を設計した人物の脳裏にはどんな目的があって、その目的がどういった思考を経てこの部屋の具現化に繋がっていったのだろうか』と考えたり、聴衆の服装に意識を集中させて『ああいった演出が実際に発現するためにはどんな経験や理由が必要だったのだろうか』と考えたり、教本の言葉に意識を集中させて『この執筆者はどういったことを理解させたくてここにこの言葉を置こうと思ったのか』と考えたり、していたのだった。正直、ひどくおもしろかった。