例えば、教師の気持ち

▼教師だって何かを思考する存在なのだ、なんて微塵も考えたことがなかった。かつて生徒というものだった時代の話である。要するに、もしも自分があの『教師』というものであったならば、指導内容をどういった姿かたちにして提供すればわかりやすくなるだろうか考え、聴き手の反応を随時確認しながら言葉を選び、退屈そうにしている生徒や居眠りしている生徒がいたなら哀しく思うだろう、なんていうような単純な想像さえきちんと視野に入れたことがなかったのである。というか正確に言えば、視野に入れることができなかったのである。なぜかはわからない。若くて未熟だったのだろう、とか思ったりはするし、情報が不足していたのだろう、とか思ったりもする。つまりは経験不足だったのだろうな、なんて考えたりもする。のだけど、もっと綺麗かつ丁寧かつ深遠な概念でまとめらないもんかなあ、なんて思ったりもするのだった。無論、以前よりは経験を積んだ今ならば多少は考慮できるようになった、とか判断している、とも言えるだろう。▼というような『変化』こそが『成長』と呼ぶにふさわしいものなのではないかなあ、なんて連想を拡げてみたりもした。現状ではまだ『成長』という言葉を得心できる姿で定義することができていない。肯定的に捉えられる『変化』のことをそう呼ぶのだろう程度のことしか考えられていない。ゆえに、短絡的な使用はできるだけ避けるようにしている。のだけど、にもかかわらずあえて使いたくなってしまうものがここにはあるように思えたのだった。かつては視野に入れることすらできていなかった人間の気持ちをいちおう考慮することくらいはできるようになった、ということ。を、やっぱり否定的に捉える気分にはなれないよなあ、なんて考えてしまったのである。▼さらに連想してしまう。あるいはもしかするとかつての同級生たちの中にはすでにそういう想像をきちんと考慮に入れながら教師あるいは人生と接していた人もいたんだろうか――無知蒙昧なかつての自分では微塵も想像することができていなかったものをしっかりと判断の中に組み込みながら人生を生きている人間がすでにあの場にいたりしたのだろうか。いたならその人と友達になってみたかったなあ、なんて思ってしまった。おもしろかったんじゃないかな、と思えたからだ。