曖昧な記述をしてしまう二つの理由

帰納法だから断定はデキマセン

▼現象を観察し帰納法で得た判断は確実なものではない。帰納法は全知全能の存在がおこなうものではないからだ。認識に限界を持つ者が暫定的に判断をおこなうための方法、なのである。ゆえに、構造上『確実性』を持ち得ない。科学は絶対的なものではない、とか言われる所以でもある。だが、確実ではない暫定的な『帰納的判断』を前提にして、その前提から演繹的に導き出した『演繹的判断』は、勘違いがなければ「確実なものだ」とか言えるのではないか、ということを考えていた。実際の現象と帰納的判断の結び付きには脆弱さがあるが、帰納的判断とそこからの演繹的的判断の結び付きは強固さがあるのではないか、ということを考えていたのである。▼躊躇と断定の記述の境界線はこのあたりにあるのかもしれないなあ、とおのれの文章を観察していて思った。現象を知覚して「こういうことか」と思った場合には、こうだと思った、と記述したくなることが多い。が、逆に、その『こうだと思った』という判断を前提にして、演繹的に思考を組み立てていった場合には、こうだ、と記述したくなることが多い、と認識できたのである。

性能の悪さを自覚しているところもあるし

▼演繹的思考に「ではないか」などを付け加えてしまうこともある。おのれの演繹能力に完璧を感じられていないからだ。時おり勘違いしてしまう、ということを自覚しているわけである。これは、5392たす6661は、という問いに、12053ではないか、と答えるのに似ている。計算方法は理解している。が、計算能力が未熟なので間違いがあるかも、という状態である。▼帰納的判断に「と思った」というような言葉を記述してしまうこと、と、間違いがありそうなときに「ではないか」というような言葉を記述してしまうこと、の『違い』を、ここで認識することができた。確実性の無さを演出しようとしている点ではどちらも同じである。が、何処に確実性がないか、が違うのだ。▼確実ではない判断がどちらにもあって、前者は『帰納法の構造上どうしても不確実性を抱えざるを得ない』から『曖昧さを残している』わけだけど、後者は『おのれの性能の悪さゆえに不確実性を捨てきれない』から『曖昧さを残している』わけだ。と判断したのだった。