良いと言うなら、何に対して良いのか、を語って欲しい

▼意識的か無意識的かは問わず、何らかの『背景』や『目的』が胸中にあって、その『背景』や『目的』に適合するか反発するか、で『良い/悪い』というのは判定される、というような認識モデルを現状では採用している。▼いわゆる『美醜』という判定方法は、この種の『背景』や『目的』を『身体性』に置いたものであり、つまり、結局のところこのからだがそう感じるようにできてしまっている、ということ以上のことは言えないのだろう、とか思っているわけだ。▼逆に言えば、この認識モデルでは、こう言える。▼何かしらを『良い/悪い』基準で判断するとき、その根拠や理由は、語りうる。だから、そこに根拠や理由がないように振舞うのは――判定基準なんて存在しないように語るのは、欺瞞か隠蔽か虚偽、である。簡単に言うなら、無目的に『良い』ものなどなく、だからこそその『目的』は常に語りうる、ということだ。▼逆に、何かしらを『美しい/醜い』基準で判断するとき、その根拠や理由は、語りえない。というか、ただ単にからだがそう感じてしまう、としか言いようがない。美醜の判定基準というのは至極単純に『なんだか知らんがそうなんだ』と言うしかないのだろう、とか思っているわけだ。ただし、その判定基準がなぜ育まれたのか、を推察することは、きちんとした確証は得られないにせよ、別に不可能ではあるまい、と思ってもいる。たとえばその判断が『人類すべて』に普遍化できるものであるならば、進化論で説明したりすることができるだろう、と考える。▼無論『良し悪し基準』と『美醜基準』を取り違えてしまうことはあったりするだろう、し、理由や根拠が無意識の奥にありすぎて整然とした状態で取り出すことができない、ということもありうると思う。だから、明確に判別することはできないのだが、とは考えておこう。