世界は称賛に値する

日記を書きます

哲学はこんなふうに』アンドレ・コント=スポンヴィル

哲学はこんなふうに

哲学はこんなふうに

  • 作者: アンドレコント=スポンヴィル,Andr´e Comte‐Sponville,Corinne Quentin,木田元,コリーヌカンタン,小須田健
  • 出版社/メーカー: 紀伊國屋書店
  • 発売日: 2002/10/01
  • メディア: 単行本
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 フェルメールの作品を楽しむのに、あるいは感動を受けるために、それを所有する必要はない。モーツァルトにたいして、モーツァルトの音楽に耳を傾ける喜び――それが胸を引き裂くようなものであれ――以外のものを求める者がいるだろうか? 利害を超越したこの喜びこそ、どうやってもあいまいにならざるをえない言葉を使って、美と呼ぶことができるものなのだ。美は芸術だけに固有のものではないが、美を欠いた芸術に価値があるだろうか?
 カントによれば、概念がなくとも、利害を超越した、普遍的で必然的な満足を与えてくれる対象と認められるもの(自分たちが事実上美しいと判断するものが、権利上は万人に美しいと思われるにちがいないとぼくたちは感じている)が、さらにはある種の合目的性のかたちをとりながらも、だからといってどんな目標を思い起こさせることもないもの(ぼくたちはある花や作品のなかに合目的性を見てとるが、それらはいかなる外在的な目的をも前提していないだけに、ますます美しく見える)が、美しいものである。
――P.154

なぜ良いとか悪いとか言えるのか

▼芸術というものに関してつらつらと考えていた。思索中に連想できたので、ひさしぶりに読み返してみたのだった。綺麗な把握だ、なんて改めて思うことができた。ので、引用してみた次第である。▼俗に言う『良い/悪い』モデルについて。以前考えていたことがある。あるものが「良い」と判断されながらも別の誰かや時間を経たあとに「悪い」と判断されることがある、ということが、いまいちすっきり把握できなかったからだ。いくらか思考してみて、背景が鍵らしいな、と考えられるようになった。背景が変われば『良いか悪いか』も変わる、という形状で問題を認識することができたわけである。背景は『目的』と言い換えることもできる、という認識も、ほぼ同時に持つことができた。思索の結果としてそれ以後は、誰かが「これは良い」とか言っているとき、その発言者は「何を背景/目的にしているのだろうか」ということを意識するようになったりもした。

背景や目的がなくても良いとか悪いとか思うことはある

▼だが、のちに気づかされることになった。というか気づいてしまったのである。たとえば『音楽』がそうだ、と最初は思った。ならば『音楽』にはどんな背景/目的があるというのだろうか、なんてことを考えてしまったわけである。実際問題として、良い音楽とか悪い音楽とか言えるものは、どちらも存在するだろうな、と思える。音楽に対して良いとか悪いとか言うことはできるだろう、と思ったのだ。簡単に言うならば、良い音楽/悪い音楽、という言葉によって何がしかの理解ができるはずじゃないか、なんて感じられたわけである。だがだとするならば、これは『良い音楽』である、あるいは、これは『悪い音楽』である、といった判断のもとで、実際に『背景』や『目的』になっているものは何なのだろうか。何らかの『背景』やら『目的』やらが判断の裏側には必ずあって――たとえばその『背景』や『目的』に反しているから「悪い」とか言うことができるのだ、なんて認識していた。のに、背景の見えないものもあるのではないか、と判断するようになってしまったのである。背景が見えないのにもかかわらず「良いとか悪いとか」言えるものがある――これはなんなんだろうか、というようなことを考えてしまったわけだ。

これこそが美なのかもだ

▼結果、背景や目的の不明瞭なこの『良さ』こそが『美』なのだろう、と認識するようになったのだった。認識の精確さは不明だ。が、ほとんど揺らぐことのない認識モデルではないか、と判断してはいる。無論、打破されるならそれも悪くはないけどね、とも思ってはいる。なんにせよ把握できるまでにかなりの時間をかけてしまったなあ、とは思う。この『哲学はこんなふうに』を読まなければもっと余計に時間がかかっていたかもしれないな、と思ったりもする。発想の一助になったのは間違いないのだろう。感謝を思う。▼最後になって気がついたので改めて記述しておこう。想像用の例として『音楽』というものを強調してみた。が、例は単純に『音』とかだけにしておいたほうが理解は易かったのではないか、なんて考えてしまった。いわゆる『音楽』というのは結局のところ『音』の連なりであり、ある『背景』やら『目的』やらのもとで『音』を連ねたりすることは、おそらく可能だろう、と思えるからだ。というか『聴覚』よりも『味覚』や『触覚』あたりを強調すべきだったのかもしれない、と思ったりもした。要するに、合目的性的なものが感じられながらも実際には何の目標も見出すことができないもの、の例としては『味覚』とか『触覚』とかのほうがわかりやすいだろう、と考えてみたわけである。