世界は称賛に値する

日記を書きます

結婚願望はあったりなかったり

結婚願望について訊いてみる

▼結婚願望とかってあったりする? という問いは結構おもしろいものかも、なんてことを少しばかり考えていた。結婚生活なんていう曖昧なものを対象にしてんのに無茶なこと尋ねるよなあ、というような『おもしろさ』だと言える。無理かつ無茶な質問をしてみることでどんな回答を得ることができるのか、という『おもしろさ』だと言ってもいい。実際のところ、この問いは、結婚生活、という言葉をトリガーにして思い浮かべられる生活は望ましいものであるかどうか、というような問いに集約されてしまうのだと思う。問いかけられて瞬時に『誰かしらとの望ましい生活』が思い浮かべられるならば、結婚願望はあるほうだよ、とか言えるだろうし、逆なら、当然言えないだろう、と思えるからだ。ただどちらにせよ、これまでの経験がものを言うのだろうなあ、とは思ってしまう。

結婚願望について、訊いてみて、訊かれてみて

▼ほかの人間の思考を聞くのがかなり好きだ。と同時に、なぜか思考の前提に据えられてしまっているものを尋ねるのも好きだし、思考の前提が生まれた契機であろう経験を訊くのなんかも好きだったりする。だから無論、結婚生活というものを想像して『心地好い状況』を思い浮かべられるようになった理由、とか、結婚生活というものを想像して『不快な光景』を感じてしまうようになった経験、とかを聞くのにも、好きを感じられる。ごく稀に、結婚願望とかってあったりする? なんて問いかけをおこないたくなってしまうのは、このあたりの『おもしろさ』を追求しているからなのかもしれないな、なんて考えていた。▼実際に私が、結婚願望とかってあったりする? という問いを向けられて脳裏に思い描いてしまうのは、理想的なライフスタイルが意外なほど綺麗にすっきり噛み合ってなんとなくほんわかしながらかなり幸せだなあ、というような状況と、最初は悪くない感じだったのになんだかお互い隠していた性癖とかが明るみに曝されてきて最終的にはなんかぐだぐだだった、というような二つの光景であったりする。要するに、綺麗も惨状も同じように考えてしまう、のだ。ゆえに、問いに対する答えとしては、したいようなしたくないような、というものに辿り着いてしまうのだった。無論、実際に恋人なんかがいる状況であるならば想像の中の結婚相手がその人物になったりするのだろう、とは思う。想像の内容が固定化するなら回答だって固定化するかもしれないなあ、とは思えるのだ。だが別に、固定化させる必要がある、とか思っているわけではない。

考えながら、実際の結婚を眺める

▼結婚した友人がいて、祝賀会が開かれたのだった。集合場所は上野だった。ビールをがしがし飲んでわりときちんと盛り上がりながら、胸中ではぼんやりとそんなことを考えていたのだった。状況にあまりそぐわない思考だったかもしれない、とは思っている。というか、思ってしまっている自分がいる。つまり、感じてしまっている自分がいる。ならばなぜそう思ってしまうのか――そう感じてしまう前提には何があるのだろうか、なんていうことを考えるのとかがもう私は無茶苦茶好きらしいなあ、とかを改めて思考する。なんなんだろうなこれは、とはたまに思う。常識に縛られているのでは、という答えは比較的許容範囲が広いもので悪くないな、と思っている。が、いかんせん範囲が広すぎて実際的な活動に応用するのには向かないしな、とも思う。ぬるいぜ、と思った。もっと思考せねばなあ、と考える。精進が足りない。縦横無尽に把握していこう、なんて考えていた。