ヘーゲル 生きてゆく力としての弁証法(栗原隆)

ヘーゲル 生きてゆく力としての弁証法 (シリーズ・哲学のエッセンス)

ヘーゲル 生きてゆく力としての弁証法 (シリーズ・哲学のエッセンス)

《★★★★》

 第三段階として、達生くんはいずれ、「紅葉」ということを知ることになる。これが概念的な把握の段階である。私たちは、落葉広葉樹は秋になれば紅葉することを、新緑を目にしていても、予め知っている。いや、春が巡り来たならまた若葉が萌え出ることまで含め、私たちは紅葉のなんたるかを知っている。これを「思弁」に見立ててよい。些か強引な我田引水の例ではあるが、見通しのつかないような自己否定を乗り超えて、薄明の彼方に予め想定されていた結論と向き合うことができるようになってきた今、本書の全体像を把握するように執筆するという、循環を全うする場面に差し掛かったと言えるだろう。いまだ哲学とは言えない段階の〈知〉が〈知とは何か〉を目指してゆく哲学にあっては、予め〈哲学の知〉が彼方に想定されていて、その想定されている〈哲学の知〉へと、幼い〈知〉が高まるという、思弁に向けた道程がある。〈知〉が〈知〉を知るところに、「思弁」が達成される。それを「概念的な把握」とも言う。
――P.107

▼この書物は簡単に言うと『弁証法』というものにがっつり焦点を当てた『ヘーゲル』の思考(世界観)の解説書だったのだと思う。以前に『ジンテーゼ』とか『止揚』といった概念には触れたことがあって、けれど、聞きかじっただけだったので間違いなく浅薄な理解しかできていなくて、だから、これを読んで、いまいちきちんと把握できていなかった概念が綺麗に整理されていくのは、はっきりと気持ちの良いものだった。きちんと理解できていない概念を無理矢理活用して『思考』というものを整理していた部分も少なからずあったから、概念が整理されることで、これまで考えていたことがさらにはっきりくっきり綺麗になっていくのも、間違いなく快感だったと言っていい。けれど無論、まだまとめきれたりはしていない。不明瞭なところがたくさん残っている。この段階が整理されたことでようやくその『不明瞭な段階』へ足を伸ばすことができるようになったなあ、なんて考えていた。結局のところそれがとても嬉しいのだ、と思ったりもした。