あなたが操り人形に過ぎないことを悟らせないために

操られているのではないか、という問いそのものを発生させない

▼もしも私に『他人の思考を自由に操る能力』なんてものがあったとしたら、もしかしたら私は操られているかもしれない、というような系統の思考そのものにロックをかけてしまうに違いないと思う。気づかれないほうが面倒が少ないだろう、と思えるからだ。単に現代日本の文化が形成したものなのかもしれないが、私の胸中には間違いなく、裏で誰かに操られている人生なんて御免だぜ、というような気持ちがある。私は自由だ、と思いたがる傾向があるのである。これこそがある種のロックなのではないか、ということは、時おり考えてしまう。自由でない、ということに対する拒否反応――この不思議な反応自体が、すでに何かを覆い隠しているしまっているのではないか、というような疑問を覚えてしまうことがあるのである。こうしてきちんと疑問として取り扱えている以上、思考を制限するロックなどないんじゃないか、と考えてしまってもかまわないのではないか、とか考えてみることもある。が、そう考えてみると、逆にこう思ってしまうのだ。単純に『思考させない』なんていう『ひどく負荷の大きそうなロック』をかけるよりも、構造を少し複雑にして『いちおう疑問に思うことはできるけれど、確実な答えを求める手段を探す術などは存在せず、適当な仮説を立てることで、まあ大丈夫だろう、というような楽観的かつ短絡的な結論を出してしまえる』くらいの『柔軟性に富んだロック』をかけてしまったほうが、効果的なのではないか、と。あえて中途で満足させてみることで奥までは踏み込ませない、というメソッドであろう。おのれの精神に対して、最近は、この種の機構の存在を感じることが多かったりする。打破してみたいものだ、と思っていたりもする。

操られているのではないか、という問いそのものを存続させない

▼前項のような文章を誰かが書いていて、私がそれを読んだりしたら、確かにもしかしたら自分は操られているのかもしれないな、なんて少しだけ思考してみて、けれど数秒後には、けどそんなわけないよね、と考えてしまっているんじゃないかと思う。要するに、この傾向がすでにロックなんじゃないか、と思えてしまうことがあるのである。言い換えれば、自由であると信じたがる傾向を精神に持たせることで、問いそのものを持続させられなくする、という策である。疑問自体は持てるからとりあえず満足だろ、という感じか。