世界は称賛に値する

日記を書きます

四季 春(森博嗣)

四季

四季

▼隣の部屋は最近『書物で構築された遺跡』になってしまっている。整理中ないし放置中だ、と言える。いいかげん処理せねばなるまいな、とは考えている。遺跡から森博嗣氏の著書『四季』を偶然発掘することができた。愛蔵版である。思いのほか深くないところに眠っていた。思わず読み始めてしまった。読みたい、とはずっと思い続けていたからだろう。読むのに軽い恐怖を覚えてしまうところもあった。期待が過ぎたせいだと思う。▼真賀田四季が好きだ、とはやはり思ってしまった。以前から好きだったのだ。ので、いずれ同じ気持ちを抱くだろう、と予測していたのである。単に天才が好きだからだ。なんていう理由は曖昧が過ぎるんじゃないか、と思った。反省する。こういった言葉を放つ人間の思考がとても好きだからだ、なんて言い換えたほうが正確になるだろうか。▼真賀田四季の思考を観察していると、俗に言う『感情』というものが、比較的軽視されているように思える。つまり、優先順位が比較的低く設定されているように見える、のである。俗に言う『感情』というものに対して、あまり執着かつ考慮していないように思える、し、執着かつ考慮する必要があると考えてもいないように思える、わけだ。最優秀な思考というのはこういうものなのだろうか、なんて問いを思わず打ち立ててしまった。思考というものを強化していくと最終的にはこのあたりに辿り着くのだろうか、という疑問を持ってみたのである。違うかな、とは思った。俗に言う『感情』というものに対して卓抜した洞察を発揮する優秀な思考、というものを想像することだってできたからだ。▼ここでの真賀田四季はまだまだ年齢的に子どもである、ということは間違いなく言える。経験したものが比較的少ない、のだ。ゆえに、情報の入力が十分ではない、とも言える。彼女の現状での思考がいわゆる『感情』を考慮するところに達していないのはそのせいなのかもしれないなあ、なんていう思考をおこなったりもした。洗練された思考が『感情』を排除するというわけではなくて、単に『観測経験の量がもたらす問題』なのではないか、という形状で考えてみたわけだ。▼激しい感情の持つ有益性を理解している――がゆえに――激しい感情をきちんと使いこなせる――天才、というものについて思考していた。瀬在丸紅子の姿が思い浮かんだ。あるいは彼女こそこの種の天才なのではないか、なんて想像してみたわけである。要するに、脳裏に図抜けた思考を携えながら、感情の優先順位を下げてもいない、というような印象を彼女に対して抱いていたのだ。瀬在丸紅子と真賀田四季では私は瀬在丸紅子に好感を抱いているようだ、ということに気がついた。ので、おのれの価値観を改めて走査してみた。比較的感情を重要なものだと判断しているのだな、と思う。判断を否定されるのが怖いのか、ということにも気づいた。脆弱がすぎるな、と苦笑する。