もんじゃ焼きとおまえが悪い

▼ひさしぶりに『もんじゃ焼き』を食べる機会に恵まれた。比較的食べた経験の少ない人間なのではないか、と推測している。多く見積もっても十回に満たないはずだろう、と記憶しているからだ。と同時に、おそらく十回以下は平均値を下回っているのではないだろうか、と推測しているからだ。ほかの料理は大抵十回以上食べたことがある、という判断が前提になっているのは間違いない。が、誰だってそんなものかもしれない、と思ったりもする。巡り合わせが悪くてなぜかあまり食べたことがないのだ、という料理が、誰にでもいくつかはあったりするんじゃないか、と思ったのだった。場所は月島だった。現状では『もんじゃの本場だ』と認識している。▼帰還したあと、飲みに行こうぜという流れになった。参加者はミヤ氏とフミ嬢。この構成で飲むことは比較的多くなっている。比喩全開で会話をおこなっていた。最近は比喩が好きだ。むしろ好きすぎる、とすら思う。おそらく、比喩が持つ重要性、や、比喩と知性の関係、なんてものを深く考えるようになってしまったからだろう。抽象的なものは結局比喩でしか理解できないのである、という言葉を聞いて強い納得を感じていたりもした。比喩できること、に、かなりの大切さを感じてしまっているのである。だから最近は、しばらくこの方向で強化してみようか、と考えていたりする。意識的に活用するようにしている。▼問題を解決するのに活用すべきなのは結局のところ自分だけなのである、という判断は、おおむね妥当なものなのではないだろうかと思える。最善の策は常に『自分を変えること』にあり、最速の策も常に『自分を変えること』にある、とは、確かに考えられるように思うからだ。誰かが解決してくれるのをただ待っているよりは、自分で動いて解決しようとしたほうが手段としては間違いなくいいもののはずだ、という思考に妥当なものを覚えるのである。▼これを逆転すると、悪いのは常におまえである、という説教が可能になるんじゃないか、とも思っている。もしおまえの人生に問題があるならば、それを解決する最善かつ最速の手段は『おまえがどうにかすること』であるのだから、おまえがどうにかしていないならば結局おまえが悪いのだ、という論法である。これもまた妥当なものではあるのだろう、と思ったりはする。確かにこの世界にはそういう面がある、とは判断できるように思うからだ。▼が、この思想を迷いなく全面的に展開していくのは無理なのだろうな、と考えてもいる。問題の責任をすべておのれに帰せられるほど人間の精神は強くない、という条件があるようだ、と判断しているからだ。これは経験的な判断である。この条件を考慮するならば、責任はすべておまえにあるのである論法は、たぶん役立たずになってしまうはずだ。視野を広く持つなら、問題を先送りしているだけ、になってしまうからだ。ゆえに、責任の分散や軽減を考えなくてはならなくなる。言うなれば、責任を転嫁する先を考えねばならない、というわけだ。おかげで、考えるべきはこのあたりなのかもしれない、なんて最近は考えてしまうことも多い。問題の責任はすべておのれにある、と言えるだけの強靭さを求めているからこそ、逆にそのあたりのことを考えてしまうのではないかと思う。弱さ、と、弱さへの対処法、を考えることが、結局最後は強さに繋がるのだ、と判断しているからだ。