世界は称賛に値する

日記を書きます

泣くことはほんとうに卑怯なのだろうか

涙は圧倒的な武器になりうる

▼涙は卑怯なのだろうか、と考えていた。確かに涙の効果には破格なところがあるように思える。うまく扱えば相手に反撃の余地を与えず圧倒的殲滅をおこなうことだって可能だぜ、なんて言える『強靭な武器』になりうるだろう、とは判断できるように思うのだ。だから、卑怯だ、という言葉が適用されたりするのだろう、と考える。が、強靭すぎて卑怯な武器になりうる、からといって、卑怯だから泣くのはやめろ、とか言うことが許されるのだろうか、なんてことを考えていたのだった。▼圧倒的な有利のために計算された涙は確かに卑怯なものだろう、とは判断できる。勝利するのが難しいからだ。勝利が難しいから、活用されたら勝つことなんてできない、と判断するのは妥当なところだ思うし、卑怯だという言葉で機先を制して活用させないようにしよう、と策略を練るのも妥当なところだと思う。が、同時に思うのだ。別に涙は『圧倒的な有利』を目的とした『計算されたもの』だけじゃないじゃないか、と。単純につらい気持ちになって、単純に哀しい気持ちになって、人間は泣くじゃないか、と思ったのである。なのに圧倒的な不利だけを恐れてその涙を封じてしまうことはありなのだろうか、なんて考えてしまったわけだ。

有利不利より大切なものがあるのではないか

▼確かに計算されたものでなくても涙は強靭な武器になってしまいはするのだろう、とは思う。単純に強いものだと考えられるからだ。計算されたものであろうとなかろうと結局は不利な立場に立たされてしまうだろう、なんていう状況は容易に想像できるように思うからだ。だから、計算されたものであるかどうか、とは無関係に――有利不利までを考慮してなされたものであるかどうか、とは無関係に、涙は卑怯だ、とか発言することで優勢を保とうとする精神が、想像できないわけではない。常に優勢に立っていたい、と考えるのならば、泣くのは無しだぜ、という言葉は確かに有効なものだろうと思う。▼が、単純に『泣きたくなって泣き出してしまっただけの状況における有利不利』が、わざわざ保とうと意識するほど重要なものなのだろうか、と私はどうしても思ってしまうのだ。相手は特に優勢であろうとなんて考えておらず、自分が単に劣勢になってしまったと感じているだけの状況、なんか、別に気にしなくていいんじゃないか、思ってしまうのである。つまり、どうでもいいんじゃないかなあ、と思ってしまうのだ。というかむしろもっと大切なことがあるのではないか、と思ってしまったりもする、なんて言ってもいい。▼言うなれば、泣いてしまった相手の心のほうが余程斟酌すべきものなのではないか、なんて思ってしまうのである。あるいは、相手の動揺や切迫のほうが自分の有利や不利よりも思考するに値するものなのではないか、と感じてしまうのだ。この胸中の価値観はそう判断してしまう、なんて言うべきなのかもしれない。なんにせよ、これまでの経験は私にそう判断させるようになった。▼だから、涙を見せた人に「泣くのは卑怯だ」とか言ってしまう人に遭遇すると、どうしても疑念を覚えてしまうのである。相手のつらさとか哀しみとかよりもおのれの立場が優勢であるかどうかのほうが大切なのか、と。不利な立場に立たされないよう『卑怯だ』という言葉で牽制することが最も優先すべきことなのか、と。▼という問いに対して、そうだ、と答えるのは『アリ』だと考えている。以前から『自覚的ならば問題はなさそうだ』という判断を持ってしまっているからだろう。覚悟を決めているならいいんじゃないか、と思ってしまっているのだ。が、覚悟を決めている人ばかりではおそらくない。気づいていない人――考えていない人、も、多いように思える。というような短絡を持っている人に対して、ほんとうにそれでいいのかなあ、と思ったのだった。