世界は称賛に値する

日記を書きます

誰かを救えるとか思ってしまうことは傲慢なのか

頻繁に言われるもの、は、確かにそうであることが多くはある

▼誰かを救えると思うことは傲慢なのか、なんてことを思わず考えてしまった。考えてしまった、のは、誰かがそんなようなことを言っていたから、だろう。思考というのはおおむね同じようなところから始まる。こんな話ばっかり聞かされるんだけどほんとうにそうなのかな、というようなところからだ。▼というような『ほんとうにそうなのかなあ』思考を幾度と無く繰り返してきたことで理解することができたのは、確かにそうだ、なんて言えるような状況は確かに頻繁に観測することができる、ということだった。ここでならば、誰かを救えると思うことが傲慢である状況というのは確かに頻繁に見られる、ということに相当する。しかしそれは、誰かと救えると思うことはいつもで常に傲慢なのだ、を意味したりはしない。頻繁である、だけでは、すべてそうだ、は導けないからだ。

あれはこれである、と言う時、あれの中にはこれの源泉がある

▼単純に思考しよう。単純に言うならば、誰かを救えると思うことは傲慢なのだ、と人に思わせてしまうような『傲慢を感じさせる構造』が『誰かを救えると思うこと』の内部には存在していることが多い、ということなんだと思う。だから、捕捉すべきなのは『傲慢を感じさせる構造』なんじゃないか、と最近はどうしても考えてしまうのだった。明確に言うなら、傲慢を定義せよ、とか思ってしまうのだ。▼なぜ、定義せよ、なんて思ってしまうのか。こういう場面できちんと定義する癖をつけることが、最終的にはおそらく私の抱く『理想の世界』に繋がるから、というのが『これ以上深く遡るのは難しい』ところの回答になるんだと思う。軽く遡るだけでいいなら、きちんと定義することでいくつかの可能性を手に入れられるから、と言っておきたいところ。▼誰かを救えると思うことは傲慢なのだ、という観念を丁寧に解析していって『誰かを救えると思うこと、が傲慢を感じさせる理由』を探していく。いずれ『傲慢を感じさせる構造』を発見することはできるだろう。できないことはあるまい、と経験から判断して思える。この『傲慢の構造の把握』がかなり役に立つぜ、と私は思っているのである。利用価値がある、と思っているのだ。

源泉となる構造を掴んでおくこと、が、可能にするもの

▼誰かを救えると思うことは傲慢なのである。なんて言説がまかり通るのは、きっと、誰かを救えると思うこと、の中に、傲慢の源泉となるなにか、があるからなのだろう。ならばそれを掴み取ってしまえばいいじゃないか、と思ってしまう。掴み取ることでいくつかの行動が可能になるはずだ、と思えるからだ。かなり有益な行動が可能になるぜ、なんて思えたのだった。と、まとめてみた。▼利用価値の一つを私は、別の行動の内部に『傲慢の構造』が潜んでいた時にそれを認識することが比較的容易になるんじゃないか、という可能性の中に見ている。傲慢の構造は『誰かを救えると思うこと』の中にのみ存在するわけではない。ほかのところにだってある。だから、解析済みのものを用意しておくことでほかのところにあるものも認識しやすくなるんじゃないか、と思ったわけだ。▼利用価値の一つを私は、うまいこと工夫すれば『誰かを救えると思うこと』から『傲慢の構造』を排除することができるかもしれない、という可能性の中に見ている。傲慢の構造がどこにあるかきちんとわかっていれば、傲慢の構造を切除しても『誰かを救えると思うこと』を構築することができるんじゃないか、なんて試すことができるのでは、と思ったわけだ。