世界は称賛に値する

日記を書きます

相手がどう思うか、という問題も、別問題としてある

▼相手が『優しさ』だと認識しなければそれは『優しさ』などではないのだ、というような思考は、無論ありうるだろうな、と思う。同意だってできる。が、これは『優しさというものの定義が持つ問題』とかではなくて『人間の主観というものが持つ問題』なのだろう、と最近は考えている。だから『人間の主観が持つ問題』まできちんと考慮して、この選択を『優しさ』によるものだと独りで断ずることは可能だけども、しかし、相手がその行為を『優しさ』だと認識するかどうかはまったくの別問題であり、ゆえに、相手が『優しさ』だと認識できるような工夫も施しておいたほうが、さらに卓抜した『優しさ』を構築することに繋がるのではないか、というような思考が好きなのである。▼相手が幸せになるように行動しているはずなのに、相手がどう思うかを考えないのでは、相手が幸せになるように行動していることにならないのでは、という方向から攻めることもできるのではないかな、と思ったりもした。確かに『気持ちで定義できる』と思ってはいる。が、欲求で定義できそうだ、と思っているのであって、思考で定義できそうだ、と思っているわけではないのだ。▼蜜柑を食べたい、という欲求からくる行動、をオウレンジと呼ぶようにしたからといって、蜜柑を食べたい、という思考を持ちながら行動すればすべてオウレンジなのか、と言われたら、違う、ということである。である、じゃないと思った。