仏教的な死の対処法

▼墓参りに向かう。考えた。▼棚の上に牡丹餅があるとする。でもって、牡丹餅が食べたいなあとか思いがちな人間がたくさんいるとする。この人たちに、牡丹餅を食べたいと思うなら手を上に伸ばしなされ、とかまとめて言ってしまうことは、比較的正当なことなんじゃないか、と思える。▼でもっておそらく私は『宗教』というものを、この延長線上で考えてしまっている。大抵の人間が『ぼくはこういう人生を素敵だと思ってしまう』と感じてしまうようなこと。つまり『幸せの公約数』みたいなものがあるとして。もしもその幸せの公約数を獲得したいと思うならこうすればいいんじゃないかね、という助言と技術をまとめあげたもの――まとめが結実したもの。が、要するに『宗教』と呼ばれるようになったんだろうな、なんて考えてしまっているわけだ。▼宗教の中では特筆して仏教が好きだ。仏教の目的としているものが私が目的として抱えているものに酷似しているように思える、からだ。だから、仏教の開発者が『幸せの公約数』を算出するときにサンプルとして取り上げた人間には、きっと比較的私と似たような意識や価値観や脳を持つものが多かったんだろうな、なんて考えていたりもする。ので、仏教が語る『幸せ獲得のための方法論』は大抵ものすごくしっくりくる。のだけど、死者への対処法あたりだけは実はよくわからなかったりもする。死関係の事象に対する衝撃を軽減もしくは変質させるために構築された技術なんだろうな、とは思っている。のだけど、実際的な場面ではやはり違和感を覚えてしまうことが多かったりするのだ。推測されていたほどの衝撃を死に対しては感じない人間である、か、想定されていたほどの衝撃を与えるような死をいまのところ体験したことがない、ということなんだろうな、とは思う。▼汚名返上すべく囲碁での勝負を挑んでみた。池袋集合。が、結局すべて敗戦してしまった。とはいえ、これでだいぶ切迫したはずだ、とは感じている。前回のような惨敗ではなかったからだ。もっと石の生死をはっきり見定めねばな、と思った。詰碁が必要な時期なのかもしれない、とも思った。さすがに『ヒカルの碁2』では限界があるし、とも考えていた。コンピュータはあまり強く粘ってくれないからだ。粘られすぎて負けました、というような状態をシミュレーションしたいのである。素敵な詰碁書を探索中だ。DSの『えいご漬け』を購入したりもした。