世界は称賛に値する

日記を書きます

価値観はひとそれぞれ。わかってるさ。だったらなに言えるのか

もしも背景が同じならこれはこういう価値を持つはずだ、というモデル

▼意識の形が自分に酷似した人物がいたら――同じような美意識や価値観や目的意識や道徳観念を持つ人間がいたら、おそらく私はその人物に、あなたの行動は間違っている、と迷いなく言うことができるだろう、とは思える。あなたの美意識が――価値観が――目的意識がそれを許すのか、というモデルで批難することが可能なんじゃなかろうか、と考えられるからだ。批難して、美意識や価値観や目的意識の違いがあらわになって、別に美意識や価値観や目的意識が酷似していたわけではなかったんだな、なんていうような判断が浮かび上がることだって、当然あるだろう。背景が入れ替わって対象の行動が別の背景のもとで正当化される。つまり、批難が意味をなさなくなる。無論それならそれでかまうまい、とも考える。▼というようなモデルのもとでしか行動を批難することは意味をなさないのではないか、と考えてしまっているらしい。端的に『間違った行動』などというものはない、とか考えているようなのだ。だから、おのれの抱えている美意識や価値観や目的意識や道徳観念を、相手に向かって身勝手に当てはめて、あなたは間違っている、なんて安易に判断している思考を見かけたりすると、もどかしくなってしまうのだと思う。

わたしの背景、あなたの背景

▼たとえば私は、できることなら『社会的成功』を掴んでみたいと考えている人間だ。おのれの可能性に興味があって、おのれの可能性というのは結局のところ『世界をどこまで変えられるか』みたいなところにあるんじゃないか、と考えていて、世界をどう変えたいかと問われたら自分が『おのれが信じる幸せに満ちた風景』をどうしても思い浮かべてしまうことを知っていて、理想の世界を実現するためには研ぎ澄まされ鍛え抜かれた『ある種の知性』が必要になるだろう、とか判断していて、社会的成功を掴めるかどうかはその知性が存在するかどうかの一つの目安になるかも、と推測しているからだ。だから、選択した行動を『社会的成功を掴むためにそれは果たしてどうなのさ』といった観点から評価することができるし、違和感なくその評価を受け入れることもできる。▼だが、だからといって、この『社会的成功』というやつを誰もが求めているわけではないのだろう、とも思うわけだ。おのれの可能性にどういった興味を持っているか――人間の可能性というものをどういった形で捉えているか――頭に浮かぶ理想の世界――思い浮かんだ理想へと向かうための道のり――社会的成功という概念の位置づけ――そういったものがちょっとでも違ってしまえば、最終的に導き出される結論は違うものになってしまうに違いない、と考えられるからだ。▼背景が私のものとは違う人間に対して、私が私の『背景』をもとにした評価をくだしたって、結局のところなんにもならないんじゃなかろうか、というような話だ。数学の答案に対して書道の先生が『こんな汚い字じゃ点数はやれないな』なんて言ったところで、なんの意味があるのだろう、みたいな話である。だから、対話の際にまず必要なのは、背景の一致を試みることなんじゃないだろうか、と考えているわけだ。

背景を語って、もしも同じならと語って――でももちろん違うひとだっていていい

▼これまで私はこういう経験を積んできたから、こんなような美意識や価値観や目的意識が構築されていて、だからあなたの行動は私にはこう見えてしまう。私の価値観のもとでだとあなたのこの行動にはこういう問題があるように見えてしまうからね。もちろん、信じるものが違うのなら、こんなのは異文化からの言葉だと思って聞き流してくれてかまわない。でももし同じような価値観を持っていて、けど単に、いままではこのへんを考えたことがなかっただけ、だったりするのなら、ちょっと考えてみて欲しい。とかいう感じになるわけだ。▼無論こうした言葉だって、言葉は伝わったほうが気持ちいい、とか、反発を呼び起こすよりは考えさせる言葉のほうが理想の世界に繋がる、とか、ちゃんと考えて言葉を紡いだほうがうまくいきそうだ、とかの『現在私が抱えている背景』を前提にして語られたものだ。だから実際、私はこう思う、に過ぎなかったりはする。ゆえに、独り言を言うことのほうが素敵じゃん、とか、伝達効率なんてまったく気にならない、とか、怒らせることのほうが言葉を伝えることより間違いなくおもしろい、とか、考えないで気にせず動いたほうがうまくいくんだ、とか考えている人間に対しては無効になるはずだ。