世界は称賛に値する

日記を書きます

翔太と猫のインサイトの夏休み(永井均)

翔太と猫のインサイトの夏休み―哲学的諸問題へのいざない

翔太と猫のインサイトの夏休み―哲学的諸問題へのいざない

P.120

「どんな理屈をつけたって、地下鉄に乗っている人を無差別に殺していいなんてことがあるわけないと思うけど。でも、彼らの教義が支配している世界では、そんなこと言っても通用しないだろうし……」
「きみのそういう考えは世の中を脅かす危険思想ってことになるだろうね。じゃあ、逆に考えてみたらどうだろう。ぼくらよりもはるかに倫理性の高い人間集団を考えるんだ。ぼくらは現に大気汚染や森林破壊を引き起こして、地球とぼくらの子孫に多大なダメージを与えている。倫理性の高い人々から見れば、ぼくらのやっていることは極悪非道だ。もっと簡単な例は交通事故だな。日本だけでも年間一万人もの人が交通事故で死んでいる。それなのにどうして自動車を禁止しないのだろう? こんな危険きわまりない凶器を野放しにしておくのはどうしてだろう? もちろん自動車が使えなくなれば不便だからさ。ということはつまり、ぼくらは便利さのためには人の命を犠牲にしてもなんとも思わない連中なんだ。だから、もし現在のぼくらよりも倫理性が高くて、便利さのために人の命を犠牲するなんてとんでもないと思うような人たちが多数派だったら、現在のぼくらはナチスやオウムと同じような極悪非道な者とみなされるはずだよ。でも、どういうわけか現実はそうではない。どうしてだと思う?」
「どうしてなの?」
「理由なんてないさ。たまたま人間の大部分がその程度に出来ていただけのことさ」

 いつも考えてしまう言葉だ。倫理というものを考えているとどうしても思い出してしまう言葉、だ。連想して思う。文脈や表現の変化に合わせて『倫理的に正しいかどうか』ということまで変わってしまうことがあるよなあ、と思う。近所の子どもたちを護るために蜂の巣を駆除する、という表現と、花畑の鮮やかな彩りを維持していた蜜蜂たちを個人的な都合で殺戮する、という表現は、同じ行為を語る言葉、でありながら、かなり違う感触を持っているように思える。なぜか。抽象化が恣意的だからだろうな、と考える。たとえ同じ行為であっても、善いと感じさせるようなもの、を残すフィルタを通すか、悪いと感じさせるようなもの、を残すフィルタを通すか、によって、人が感じる『善し悪し』までが変化してしまう、ということだ。最近特に興味があるのはそのあたりだったりする。同じことなのに、善い、と言う人と、悪い、と言う人がいる。フィルタを通すことで残したものが、が違うからなんだろうな、と思う。というところから疑問を覚えるのである。ではどちらのフィルタに通したほうが『善い』のだろうか。どちらのフィルタに通したほうが『良い』のだろうか。でもって、どちらのフィルタに通したほうが『素敵な世界を出現させてくれる』のだろうか。そして、最大の疑問は、フィルタで濾過されてしまう部分をどこまで残しておくことが可能なのだろうか、ということであり、すべてを判断の対象にしたとき私が思う『善し悪し』はどう変化するんだろうか、ということなのだった。