殺人を邪魔する抵抗をどんどん消してみましょうか

 誰も悲しまなくても罪悪感を感じそうだよなあ、と少し考えていた。罪悪感と呼ぶのが適切なのかどうかはわからない。が、人を一人殺す、人を一人消す、ということは、ただ単純にそれだけで、重い。重いと感じてしまう。比喩するなら、重視すべき、と書かれた箱の中に『殺人』という行為を収納してしまっている、というような状態か。私がそう感じてしまう人間である以上、ただその行為を選択しただけで心に『重荷』のようなものを抱えてしまうのではないだろうか、ということは、容易に想像できる。心に『傷』のようなものをつけてしまうのではないか、と簡単に予感できる、のだ。そういった想像と予感が、引き金を引くことをためらわせる、ということは確実にありえるだろうな、と思ったのだった。記憶かなあ、と考えてみる。もし『記憶が残らない』というならば、その抵抗を無視できるんじゃないかな、と考えてみたのだった。しかし、いやいや違うだろう、と思い直す。発砲することが嫌な気持ちを抱えさせるかもしれないけど、記憶は発砲とともに消えるから、気にしないでいいよ、と神様みたいなものに言われたとしよう。でもって無論、それを真実だと確信できる根拠もあったとしよう。けどさあ、たとえそんなこと言われても気にするよなあ、と思ったのだった。引き金を引く瞬間に『一人の人間を消滅させる重み』や『おのれの選択によって世界の流れに大きな変動を起こしてしまうことの憂鬱』みたいなものを感じさせないような、もっと別の『ではもしこうだったら』を探さなければならないんだろうな、と思ったわけである。記憶に残らない、じゃ足らない。人を殺すことを重く感じてしまっている、ということが抵抗になっているんだから、では人を殺すことを重く感じていなかったら、という想定は、してみた。が、これって果たしてアリなんだろうか、と思う。嫌だと感じるところ――価値観、まで変化させて、殺せるかどうかを問うてみて、殺せる、とか、殺せない、とか言えたとしても、その『答え』は結局なんなんだ、と思うのだ。無駄だ、とか、無意味だ、とか思うわけではない。位置づけに迷うのである。これは人を殺せるということなのか、とやっぱり思ってしまうのだ。