文脈をちゃんと見て、文章を掴んでみる

 発語されたもの、というのは、結局のところ『人生の一部分』に過ぎない。人生、という文脈の上に投げ出された『単なる一つの表現』に過ぎない。だから、発語されたものの持つ意味は、その人がどういう人生を送ってきたか、ということに大きく左右されてしまう。言葉の意味、というのは、文脈、によって変化させられてしまうものだからだ。例を考えてみようかな、と思う。たとえば私が「ここで煙草を吸うな」なんてことを言ったとしよう。無論その背後には人生やら血肉やらがある。つまりは私の『文脈』がある。言葉の意味を決定づけるもの、言葉の意味を変化させてしまうもの、がある。その発言に至るまでに私が経験してきたすべてがある、なんて言ってもいい。たとえば、そこが喫煙の許されている場所なのかどうか、というような文脈がありえるだろうし、知り合いに言ったのか見知らぬ人に言ったのか、というような文脈だってありえるだろう。煙草というものの害悪を私が専門的に研究していたりするのかどうか、という文脈だって想像できる。煙草の害悪によって死んだ人を知っているのかどうか、なんていう文脈だって想像することができるだろう。批難しておきながら自分は煙草を吸っているかどうか、というような文脈だって想像できるように思う。言われた側の性格、だって文脈だと言えるし、言った側の生活態度、だって文脈だと言える。そういった『文脈』が数え切れないほどあって、そういった『文脈』が変化することで、受け手が『発語されたもの』に感じるものも、当然変わってきてしまう。赤ん坊のいる隣で知り合いに「ここで煙草を吸うな」なんて言ってしまうこと、と、喫煙所でまったく見知らぬ人に「ここで煙草を吸うな」と言ってしまうこと、は、全然違う意味を持つよな、という話である。言葉を読むときには著者の人生を想像してみろ、というのは、要するに、惰性で読もうとせずに文脈というものをきちんと捉えてみろ、ということなのである。文脈を入れ替えてみると、それまで意味の捉えづらかった文章が、わかりやすくなることもあったりするぜ、と認識しているからだ。