世界は称賛に値する

日記を書きます

わたしのことを大切に思ってくれているみたいだから、納得できる

 ああなるのが納得いかねえんだよ、とか言っている人たちの数割は、結局『自分たちとの思い出』は無駄だったってことなんだろ、というような憤りを覚えてしまっていたのではないだろうか、と想像している。自分たちとの思い出が軽視されてしまったことが気に喰わなかったのだろう、と考えているわけだ。でも、自分たちの思い出を大切なものだと思っていたからこそああなったのだろう、と、私は感じることができた。だから、別段憤りを感じることはなかった、し、問題なく納得することもできた。というような解釈ができるように思う。と考えると納得って怖いな、と思ってしまった。おのれが大切にされているかどうか、で、納得できるかどうか、が変化してしまうなんて、怖ろしいことだ、と思ってしまったのだ。自分の行いや感情が肯定されているから、これは正しい、と感じてしまう。自分の行いや感情が否定されてしまっているから、こんなの間違いだ、なんて感じてしまう。そんな恣意的な『正否』の基準の存在に、恐怖と苛立ちを感じてしまったわけである。気づかぬうちに自分もやっているかも、と想像してしまったからだろう。