誰もが必要としているように見えても、誰もが必要とするとは断言できない

 誰からも『優しくされる』ことがなくても生きていけるだろうか。微塵も『優しさ』を意識することなく生きていくことなんてできるのだろうか。ということを考えていた。私は無理だし、たぶん私の知る大勢の人たちも無理だろう、と思った。思ってしまった。少なくとも平然とはしていられないだろうな、と想像してしまったのである。まったく気にしないというわけにはいかないだろうな、と考えてしまったのである。まるで影響なんてされないぜ、というわけにはいかないのだろうな、と思ってしまったのである。にもかかわらず、誰もが――私の見知っているすべての人間が、優しさ、というものに対して、多かれ少なかれ縁を持って生きてしまっているのだとしても、この世界のどこかには『優しさとは完璧に無縁な人間』もいるのではないか、なんて風に、私はどうしても考えてしまうのだ。すべての人が同じように必要としてしまうもの。すべての人が同じように感じてしまうもの。なぜかどうしてもそういったものを信じることができないのである。どこかに疑いが残ってしまう。単に私がそう感じるだけ、という論調が多くなってしまうのはそのためだ。なぜ私はわざわざ極端な人格を想定してしまうのだろう、という疑問を覚えることももちろんある。極端な人格を想定することで人格に固定観念を持たないようにしているのだ、というのが回答だ。人格に対して固定観念を持ってしまうのはあまり有益ではないようだ、と考えているからだ。ということを考えてみると、全人類すべてがこれをこう感じるのだ、と断言できるだけの確実な根拠を手に入れない限り、おそらく私は曖昧な論法を駆使し続けてしまうのだろうな、と思える。そして、そんな位置にある確実な根拠を手に入れることなんて全知でない人間には実質不可能なのだから、きっと私は死ぬまで断言することなく生きていくことになるんだろうな、なんて思ったりするのだった。