ただ分解するだけでは駄目だ

 物凄く複雑だと思っていたものが実は簡単な形を組み合わせただけのものだった。と突然気づくことがある。気づけることがある。わりとこういった閃きは気持ちが良い、と感じている。賢さに繋がっているのだろう、なんて無意識的に判断できているからなのだと思う。とか考えていると、賢さに繋がっていればオマエは何でもいいのかよ、と時おり自問してしまうことがある。自問して、無論何でもいいのさ、とほぼ迷わず回答できる人格が潜んでいることに気づく。つまり、これまでの人生の中でそう考えられるだけの経験を積んできたわけだ、と言えるだろう。なんてことを考えていたらふと思った。現状での私はこれをおおむねこう感じているようだ――こう感じるのは『こう感じて良いようだ』と判断できるだけのデータを人生の中で揃えることができたからだ――つまり私の人生がそういうものだったというだけのことではある――が、同時に、私の人生がそういうものであった以上、私の立っている位置からではそのことを否定するのは難しい――というような思考経路を通ることが、最近の私の思考には物凄く多い。感覚を『そう感じるよう形成されてきた人格』と『そう感じる人格を形成してきた経験』に還元してしまうわけだ。別にそれをことさら否定するつもりはない。間違いだとは思わないからだ。ただ、もう少し踏み込めるのではないか、とはたまに考えてしまったりする。最近は、確かにそんな風に分解できることは間違いないのだろうが、単純にそんな風に分解してみても、ただそれだけでは何か特別なことを言っていることにはならないのだ、ということについてよく考えさせられるからだ。私の思考的弱点はおそらくそこなのだろう、なんてことすら考えてしまったりするのである。踏み込みの浅さ――浅はかさ。たとえば極めて鋭い洞察の哲学書を読んでいて、確かに言われてみればそこまでちゃんと踏み込まないと駄目だよな、と大きく反省させられることはとても多い。ゆえに、そこから学習してみたのだった。